『夜歩く』 赤と黒の一幕

 

夜歩く【新訳版】 (創元推理文庫)
 

 

ディクスン・カーのシリーズ物、バンコラン判事の一編。

その中でもバンコランのデビュー作になったのが本作である。

発表は1930年。およそ100年前の作品ということもあり、ミステリとしては正直イマイチ。

ただ、個人的にはこの作品、あまり嫌いになれない部分がある。

20世期前半のパリ、あの時代が産んだ魔窟の空気が漂っているような気がするからである。

 

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旧版の表紙。あとで「グランギニョールっぽい」と書いたが、日本で刊行された短編集のタイトルもグランギニョールである。

とある公爵の結婚式が開かれた。

結婚式のあと夜のバーに繰り出した面々の中に、悪魔じみた伊達男が一人。

彼の名はアンリ・バンコラン。

本来は予審判事の彼だが、今は公爵の友人としてボディーガードを頼まれている。

理由は一つ。新婦の元夫である凶悪な殺人犯が公爵を狙っているからだ。

しかもその男、整形して今の顔がわからないと来ている。

会場にくまなく気を配るバンコランだが、やがて監視された室内から公爵の首切り死体が見つかる。

犯人はいったいどこへ消えたのか?

 

トリックとしては密室トリック+入れ替わりもの。正直ここは「整形した殺人鬼」が出てきた時点でだいたい予想がつくだろう。

現代の読者なら、新婦が怪力持ちのリアル吉田沙保里(失礼)みたいな人であることを考えれば、容易に真相に辿り着けるだろう。

なので正直、本作品をミステリとして見ると正直イマイチである。

ただ、本作をキャラクター小説として見ると、これがなかなか面白い。

ケレン味の効いた登場人物が目白押しである。

 

まずは何と言っても主人公、バンコランだろう。

悪魔みたいな山羊髭の胡散臭い伊達男。

夜のパリの闇がなにより似合う紳士。

創元推理文庫の表紙イラストは非常によくできている。

いかにもグラン・ギニョールというキャラクター性にグッとくる。

 

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創元推理文庫版の表紙。いやぁこの表紙、とてもよくできている。

 

それに新婦ルイーズ。彼女こそまさに本作の主人公と言えるだろう。

凛とした孤高の存在のような姿を見せながら、それでいえ誰よりも乙女として生きる人間。

この点でも表紙イラストのイメージがピッタリ。

ムーラン・ルージュっぽい外見が「夜のパリの女王」感、そしてその奥に潜むはかなさをキッチリ醸し出してくれている。

 

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マン・レイ「モンパルナスのキキ」。ルイーズのイメージは完全に彼女である。

 

このほかにも胡散臭さ満点のキャラクターがバンバン登場する(そしてバンバン死んでいく)。

でも中心はこの2人。この2人に乗り切れるかどうかが本作の鍵だ。

 

殺人鬼の潜む夜のパリ、その湿った空気の中に首切り死体と血の池地獄

追うは悪魔紳士バンコラン、その中にたゆたう美女ルイーズ。

このケレン味に酔いしれるのが本作を楽しむ秘訣。

さあ、パリの夜へ漕ぎ出そう。

 

 

 

『氷』 絶望の結晶がひとかけら

 

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

 

虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の尾根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。それは恐ろしくも魅惑的な光景で、人間の眼に見せるべく意図されたものとは思えなかった。その光景を見下ろしながら、私は同時に様々なものを見ていた。私たちの世界の隅々までを覆いつくす氷の世界。少女を取り囲む山のような氷の壁。月の銀白色に染まった少女の肌。月光の元、ダイヤモンドのプリズムにきらめく少女の髪。私たちの世界の死を見つめている死んだ月の眼。

ちくま文庫で再販されるまで希少本として有名だった一冊。

作者はアンナ・カヴァン

SF界の大御所に絶賛された本作は、しかしあらすじとしてはかなり素直。典型的なロードムービーの様相だ。

 

男が少女を追っている。

氷河期が徐々に近づき、崩壊していく世界の中で、少女はとある国へと逃げていったのだ。

少女を追ってたどり着いた国では、長官と呼ばれる男による独裁政治が敷かれていた。

男と少女、そして長官による三角関係。

迫りくる氷河から逃げながら、男は少女を捕まえ、また手放しながら旅をする。

 

都合上「氷河」と書いてしまったが、実際のところ「河」というのは語弊がある。

作中の氷河は水の川のような、足元から流れてくる流れではない。

それは壁だ。

人間のサイズをゆうに超えた巨大な壁が、人を、家を、生活を押しつぶしていく。

 

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温度も音も感じない氷の壁は、バトルロワイヤルゲームのエリア縮小のイメージに近い。もっとも、壁自体が非常に美しいのだが……画像はhttps://gameisbest.jp/archives/30755 より。

 

世界が狭まる。

滅びは避けられない。

気候はどんどん寒くなり、氷に覆われた地域はもはや立ち入ることも許されない。

地球をカバーしようとする氷からは、しかし冷たさを感じない。水晶のような氷だ。

この作品に登場する氷河は、観念上の氷と言ってもいい。

まさにビジョン。

氷のビジョンに囲まれて、形而上の少女が駆け回る。

 

氷の結晶の強烈な輝きに視力を奪われて、少女は自身もまたこの極地のヴィジョンの一部になったように感じる。自分という呼応増が氷と雪の構造と一体化したように感じる。みずからの運命として、少女はこの輝き揺らめく死の氷の世界を受け入れ、氷河の勝利と世界の死に自信を委ねる。

 

氷のビジョンはどこまでも鮮烈だが、人間たちの姿はひどくおぼろげだ。

語り部以外の心理描写はほぼ出てこないし、アクションシーンなんか「投げ飛ばした」の一言で終わってしまう。

有り体に言ってしまえば、おざなりな表現と言ってもいい。

本作に登場する人物は、氷と同じくらい概念上の存在だ。

長官と語り部は同一人物のように捉えられ、夢の中で少女の姿は明滅する。

氷のレンズを挟んだ向こう側で3つの影がぼやけて重なり、また離れていく。

  

『氷』の真髄はそのビジョンにある。

ほのかに輝く氷の壁。世界の終末。

閉ざされてていく円の中で、3つの影が踊っている。

個人的にはノリきれなかったが、このビジョンが稀有なことはよくわかる。

水晶の中に閉じ込められた2人の男と、1人の女。

光に透かして眺めたい、絶望の結晶。

 

周囲にめぐらされた壁の群れに、私たちは捕らえられていた。亡霊のような死刑執行人たちの輪がゆっくりと無慈悲に迫ってくる。私たちに死をもたらすために。私は動くことも考えることもできない。執行人の息が体と脳を麻痺させている。私は氷の死の冷気が触れるのを感じ、轟きを聞き、まばゆいエメラルドの亀裂を走らせて氷が割れるのを見る。 頭上はるかな高みで、ギラギラと輝く氷山の頂が、重いうなりを上げて震え、今にも崩れ落ちてこようとしている。少女の方にきらめく下、氷の白さに染まった顔、頬をかすめるほどに長いまつげ。私は少女を胸元に引き寄せ、固く抱きしめる。落下してくる山のような氷の巨塊を少女が見なくてすむように。

 

 

 

『白鯨』 泳げ悪の真珠

 

白鯨 (上) (角川文庫)

白鯨 (上) (角川文庫)

 

 

白鯨 (下) (角川文庫)

白鯨 (下) (角川文庫)

 

 

重力の虹』に続いてパラノイア文学のご紹介。

みんな知ってるけど読んだことはないメルヴィルの『白鯨』である。

「白いクジラと戦う話」っていうのはみんな知っているところだが、読んだことがないのは大きな理由がある。

中盤に鯨についての学問的な記述が大量に入っているのだ。

仇敵の白い抹香鯨、モービィ・ディックが出てくるのは終盤100ページくらいであり、そこまでは延々捕鯨とクジラの知識を詰め込むゾーン。

この中盤が大きなハードルになっており、実際グレゴリー・ペックの映画版では(尺の都合もあって)見事に中盤がすっ飛ばされた。

中には「中盤の退屈さは捕鯨の退屈さを表しているんだ」なんてのたまう人までいる。

しかし私は断固として言いたい。

この作品、中盤こそが屋台骨なのだと。

 

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グレゴリー・ペックの『白鯨』。こちらも秀作。

 

さて、中盤のことを語る前に全体、および中盤以外の部分について触れておこう。

序盤を出港まで、終盤をレイチェル号登場あたりからと考える。

序盤と終盤だけを繋げてみると(つまり出向直後にモービィ・ディックと出会ったとすると)、そのストーリーはさながらクトゥルフ神話のエピソードに近い。

つまり人智を超えた存在=白鯨と、それを追う探索者=エイハブという構図だ。

 

作品を通して、白鯨は人智を超えた存在として描かれる。

底知れない悪意と老獪な機智を持った、不気味なほど白い鯨。

人間のスケールを超えた長い間生き続けるそいつは、不意に現れては捕鯨船を沈めていく。

白鯨は海の脅威の象徴である。

この地球上の7割を覆う海は、人間にとってあまりに巨大な、あまりに謎の多い存在だ。

『白鯨』における海がどんなものかは、ピップ発狂のエピソードを見ればわかるだろう。水面に一人たたずむ人間の心を、海は容易に引きずり込む。人のたどり着けぬ、暗く不可思議な深海へと。

モービィ・ディックは海の象徴。

コズミックホラーで描かれる邪悪な存在、悪神そのものだ。

 

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底知れぬ、先も見えぬ海は人間の根源的な恐怖を呼び覚ます。もっとも、この写真はたぶん池だと思うが……

 

対するわれらがエイハブ船長、こちらもただの探索者ではない。

邪悪なものと偶然出会ってしまった、なんてそこらの探索者と一緒にしてはいけない。

エイハブは一度白鯨と戦い、敗れ、にもかかわらず白鯨を追いかけるのだ。

クトゥルフTRPGに詳しい人はご存じだろうが、探索者にはSAN値(正気度)が用意されており、これがなくなるとその探索者は行方不明になる(ロストする)。

上記ピップのエピソードがわかりやすいだろう。

一度やられた探索者が銛を持ってわざわざクトゥルフを探しに行くなんて、正気の沙汰ではない。

しかも、何も知らない船員たちを抱き込んでである。

作中で繰り返し描かれるように、エイハブは正気ではない。少なくとも合理的ではない。

人智を超えた邪悪な存在に、犠牲を出しながらも突き進む憎悪の狂人!

 

「おお、エイハブ」とスターバックが叫んだ。「三日目だが、今思いとどまっても手遅れではない。見なさい! モービィ・ディックはあなたを探してはいません。あなた、あなたこそ、狂気のように彼を探しているのだ!」

 

これだけでも実にエキサイティングな構図だが、メルヴィルの筆はさらにその上を行く。

優しい(?)人食い人種クィークェグ、エイハブに唯一逆らう航海士スターバック、エイハブの(対等ではないが)唯一の現身パーシーをはじめとして、本作の登場人物は非常に魅力的だ。どいつもこいつも癖が強すぎるのに、全体としては奇妙なリアリティを保っている。

それに加えて文章がおそろしくカッコいい。当時の政治演説に由来すると言われる熱いセリフ回しは、男の子ならだれでも盛り上がることだろう。

 

「我汝に、神の名においてにあらず、悪魔の名において洗礼を施す!」

邪心ある鉄が焼き付くように洗礼の血を吸った後、エイハブがうわごとのようにわめいた。

 

序盤と終盤だけでも本作が魅力的なことに疑いはない。

それはグレゴリー・ペックの映画版が証明してくれたことだ。

しかし、最初にも言ったように、本作はやはり中盤が重要だと思う。

なぜかといえばそれは、モービィ・ディックが海の脅威であると同時に、一匹の鯨であるからだ。

 

もう一度クトゥルフ神話を例にとろう。

クトゥルフ神話の重層的な世界観は多くのファンが認めるところだろう。

ラヴクラフトは(あるいはダーレスは)その世界観を無数の掌編の積み重ねによって作った。

有名な『インスマスの影』のような作品は実際のところ小説としてはかなり短めであり、それらの中で描かれたのはクトゥルフ神話の世界観のごく一部に過ぎない。

複数の小説(あるいは設定)が同じ世界観に基づいて描かれることにより重厚な神話世界を描写したのがクトゥルフ神話のやり方である。

それに対し、メルヴィルは『白鯨』一作で重厚な世界観を描き切ろうとした。

その結果生まれたのが、鯨に関する短い短文を無数につなぎ合わせたあの中盤だったのである。

 

メルヴィルは『白鯨』を寓話として描くことを好まなかったのだろう。

もし中盤がなければ、モービィ・ディックは「悪神のような存在」ではなく「悪神そのもの」ととられかねない。それでは寓話になってしまう。

そうではないのだ。メルヴィルは鯨という種の永続性については書いているものの、モービィ・ディックという個体の永続性については書いていない。

モービィ・ディックは底知れぬ海の象徴ではあるが、同時にあくまで一匹の鯨だ。

質量をもたない象徴ではなく、重みと風と衝撃を持った一匹の白鯨なのである。

 

それ故、いろいろの事情にかかわらず、鯨が個体としていかに死滅するものであっても、種族としては不死であると、俺たちは考えるのだ。彼は所大陸が水を横断する前に海を横断して泳いだ。彼はかつて、チュイルリー宮殿、ウィンザー城、クレムリン宮殿の現在の所在地の上を泳いだ。ノアの洪水の時には、彼はノアの方舟を軽蔑した。そしてもし世界が、その鼠を絶滅するため、ネザーランドのように、ふたたび洪水に覆われるとしても、不滅の鯨はなお生き残り、赤道の洪水のいちばん高い波頭に立ち上って、空に向かって泡立つ反抗の汐を噴き上げることだろう。

 

さて余談になるが、中盤のことに触れるならスタッブのことに触れないわけにはいくまい。

われわれが曲がりなりにも中盤を楽しめるのは、何をおいてもスタッブのおかげなのだ。

先ほど分けた序盤・中盤・終盤の中で、それぞれの立役者は以下になるだろう。

序盤はクィークエグとイシュメール。終盤はエイハブ(およびその落とし子パーシー)とスターバック。

そして中盤は、スタッブとその(文字通りの)落とし子ピップである。

実際、スタッブはいいキャラである。常にパイプをくわえ、軽口と悪口を吐き出しながら、しかしプロとしての手腕をいかんなく発揮する。

中盤の鯨取りのほとんどでスタッブが銛を投げており、そういう意味でもスタッブは中盤のガイド役なのだ。

某コーヒーチェーンのせいでスターバックばかり取り上げられるが、あくまでもスターバックはエイハブではなくスタッブの鏡写し。

スタッブはもっと注目されていいように思うのである。

 

 

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スタッブの脳内イメージはなぜかコイツだった。パイプ爺ならぬキセル爺。

 

メルヴィルラヴクラフト、二人の作家が人智を超えた存在を海洋生物として捉えたのは、何かの偶然なのだろうか。

果てしなく広がり、無数の人間を呑み込み続ける暗い海。

その海底を泳ぐ白鯨は、まさに真珠だ。

底知れぬ海の悪意をその身に詰め込んだ、不気味に輝く真珠である。

 

いまは小さな水禽たちが、パクリと口を開いたままの深淵の上を鋭い声で鳴きながら飛び、不機嫌な白波がその険しい側面を打った。

やがてすべてが崩壊すると、海の大いなる屍衣は、五千年の昔に変わらぬうねりをうちつづけた。

 

 

『バートルビー』 人間バートルビー

 

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

 

 

「人間は考える葦である」と言ったのはパスカルである。

「人間は心を持った機械である」と言ったのはデカルトである。

人間の定義は様々だ。他にも「遊ぶ人」(ホモ・ルーデンス)や「作る人」(ホモ・ファベル)などがある。「人間とは~」で始まる言葉は、名言集を引けば枚挙にいとまがないが、いずれにせよ「何かをする」ことが人間の定義だった。

では、バートルビーとは何だったのか? 

彼は仕事も、思考も、すべてをやわらかに拒絶した。

彼はすべてのものを「しないほうがよい」と言い、生きることすらしなかった。

彼は「何もしなかった」。しかし彼が人間でないとしたら、いったい何と名付ければいいのか?

 

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ウォール街には一度だけ行ったことがある。石造りの軒先から溶けた氷柱が滴り、ウォール街の住民の設備投資への認識を痛感したものだ。

バートルビー』の舞台はウォール街だ。

主人公の弁護士は書記としてバートルビーを雇い入れるが、バートルビーはいつの間にか事務所に住み着いてしまう。

彼には奇癖があった。筆写の仕事は黙々とこなすものの、それ以外の仕事は一切断るのだ。

どんなに小さなことでも、彼はこう言って拒絶する。

"I would prefer not to"(「そうしないほうがいいと思います」)

やがて彼は書記の仕事すら拒否するようになり、事務所から出ることも拒否するようになる。

生き馬の目を抜くウォール街の中で、バートルビーは固定された点のように、何もしない。

ただじっと、ウォール街の「ウォール」を見つめている。

 

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 

 

本作を読み解く上での副読本は、やはり『白鯨』だろう。

『白鯨』でも『バートルビー』でも、メルヴィルの中心テーマは「理解できない何か」だ。

『白鯨』の場合のそれはモービィ・ディックであり、『バートルビー』の場合のそれはバートルビーだ(偶然かもしれないが、どちらもタイトルになっている)。

モービィ・ディックは海が持つ底知れぬ悪意の結晶である。誰にもモービィ・ディックの真意を読み取ることはできない(そりゃあ、クジラだからね)。

モービィ・ディックは(全面的にではないにせよ)人智の及ばぬ超常の存在としての一面を持っている。

一方バートルビーもまた、世人には理解されぬ存在だ。

仕事として当然手伝うべきことをしない。

クビになっても出ていかない。

食事はほとんど取らない。

睡眠と着替えはどうにかしているようだが、それも生存最低ラインを確保できているか怪しいものだ。

作品のほぼすべてを通して、バートルビー人智の及ばぬ存在として描かれている。

語り部は彼を理解しようと試みるが、最終的には諦めに似た親愛をもって理解を捨てる。

 

そうだ、バートルビー、仕切りのそちら側に居続けるがいい、わたしはもう君を煩わせたりはしない。

 

このまま終わっていたら、おそらく本作はただの寓話で終わっていただろう。

しかし『白鯨』でも『バートルビー』でも、メルヴィルのすごいところはこの後にある。

バートルビー人智を超えた存在として描く流れから、最後の瞬間に一気に飛び立ち、人間扱いするのだ。

そう、『バートルビー』の作品内において、バートルビーは寓意ではない。

どれだけ人間離れした行動をとろうとも、どれだけ語り部が理解できなくとも、バートルビーはやはり人間だ。肉体を持った、一人の人間として扱われている。

 

もしこれが寓話であったなら、読者は「バートルビーは何の象徴か?」と考えることだろう。

そして自らの理解の中にある何かをあてはめて、この本を閉じてしまうことだろう。

しかしこれは寓話ではない。バートルビーは何の象徴でもない。

いかに理解できなくとも、いやむしろ理解できないからこそ、バートルビーは人間だ。

そして人間だからこそ、生はかくも奥深いのである。

 

ああ、バートルビー! ああ、人間の生よ!

 

 

やりたいことが見つからない人は定義を間違ってるんじゃないの的な話

知り合いが悩んでたので。

 

なぜやりたいことを見つけるのか?

「やりたいことが見つからない!」いう人は多い。

でもやりたいことを見つけようとする目的っていったいなんだろう?

進路を決めるため?

人生に張り合いを持たせるため?

多分そのどれもが正解だと思う。

ここでは「人生の中で一つの成果を作るということを最終目標に次にやることを決めるため」としておく。

 

やりたいことは夢ではない

上で書いたやりたいことの目的をもとに考えると、「やりたいこと」と「最終目標」は違うことがわかる。

「やりたいこと」は「次にやること」の部分にあたるのであり、「最終目標」の部分ではない。

これは進路を考えるときのことを考えるとわかりやすい。

進路を考えるタイミングで必要なのは「次にやること」(どの学部の入試を受けるかなど)であって最終目標(どんな研究がしたいか、将来の夢など)ではない。

もちろん最終目標と次にやることは繋がっていた方が良いと思うが、少なくとも同じではないことはわかるだろう。

 

この点からわかることは、やりたいことを過度に重く捉えてはいけないということだ。

人生の中で達成したい成果(夢)を決めろ!と言われたらそれは詰まるだろうが、次にやることを決めるだけならいくらでも修正できる。

後でも書くが、やりたいことを重く捉えないことがやりたいこと探しの鉄則。

まず走り始めることが大事、なにごとも。

 

やりたいことは一つではない

やりたいことを「寝食を忘れて熱中できるようなこと」だと思ってる人も多い。

はっきり言おう。そんなことを見つけた人はほとんどいない。いたとしても歳取るにつれてそもそも身体がついてこなくなる。オールとか無理だからそんなの。

食の話ついでにお昼ごはんを選ぶことを考えてみよう。

せっかく食べるなら好物を食べたいもの。

でもだからといって、食べてる間はすべてを忘れられる大大大好物じゃないといけない、というわけではないだろう。

パンケーキ食べてる間は幸せになれる人だって、毎日パンケーキを食っているとは限らない。

ある程度好きなものなら普通にオッケー、そんなもんじゃなかろうか。

やりたいことも同じだ。「次にやること」なんだから気張る必要はない。

ある程度やりたいと思えるもの、それを複数用意しておけば、あとは適当にローテーションさせればいい。

そもそも最終目標に至る道において、一つのことだけやってればいいなんてことは滅多にないし、一つのことをやり続けてウンザリしてもしょうがない。

歴史上の偉人だって、みんな気晴らししてたのだ。

 

やりたいことは「こと」ではない

お昼ごはんの例をさらに考えてみよう。

今度は他人をお昼ごはんに誘う場合だ。

「好きな食べ物は?」と聞くと「ハンバーグとか、シチューとか、パスタとか」と返ってきたとする。

この場合、「そのなかで一番は?」と聞く必要があるだろうか? 好きなもののラインナップを見る限り、だいたい洋食屋に連れてけば大丈夫ではなかろうか?

さっきも言った通り、やりたいこと(=好きな食べ物)は1つではない。1つに絞る必要がない。

次にやることを決める上で大事なのは、沢山あるやりたいことの共通点だ。

「洋食」なり「甘いもの」なりなにかしらの共通点を見つけておけば、昼食に困ることはなくなる。つまり、波はあるにせよいつでもやりたいことができるようになる。

やりたいことが見つからないという人の多くはある一つの特定の行為を探そうとしているのではないだろうか?

やりたいこととはそういうものではなく、むしろ小さな好みが寄り集まってできる傾向なのだ

 

やりたいことは探さないと見つからない

それでもやりたいことが見つからないという人へ。

やりたいことを探していない、というのはないだろうか?

いや言いたいことはわかる。色々考えているけどもやりたいと思えることがないのだと。どんなものにも興味が持てないのだと。

しかし実際に、物理的にみたときに、あなたはいったい何をしているだろうか? ベッドの上でグータラしているだけではないだろうか?

厳しいことだがハッキリ言っておこう。

もしやりたいと思えることが見つからないのなら、それは一見やりたくないと思っていることの中にしかない」。

見える範囲にやりたいことが見つからないのなら、見えてないところにしか答えはない。

つまり、「どうせ面白くないだろう」と思ってやっていないことや、そもそも知らなかったことのなかにしかやりたいことの可能性は残っていない。

もちろん、「どうせ面白くない」と思っていたことは、実際やってみても大抵面白くない。それはしょうがない。砂の中から砂金を探すような取り組みだ。ほとんどの場合は期待外れに終わるだろう。

でも見つけたいのなら探すしかない。

さあスマホを捨て、街へ出よう。

いろんなものを味見してみよう。

そこからしかやりたいことは見つからない。

 

 

 

 

リチャード・ポワイエによる『重力の虹』最初期のレビューを翻訳してみる ⑤

④↓ 

kambako.hatenablog.com

 

 

この本に焦ってしまう読者は、ほとんどの場合、文学的な素養が足りないというよりも、むしろあまりにも文学的過ぎて排他的になっているのだろう。そういう人物は、声を聞かずにデザインを凝視したり、グロテスクを笑うべき時に登場人物に疑問を感じたり、意味を求めて体験を逃すことになるだろう。何よりも、最も意味ある形で組み立てられていることが多い小説世界を、文学とは異なる手法(科学)や文学より劣るとみられがちな方法(映画や漫画)のような方法で表現した小説家に、彼らは不快感を覚えることになるだろう。このような独善的な文学観で『重力の虹』を楽しむことはできないだろうし、あえて言わせてもらえば、時代を理解することもできはしないだろう。

 

もし文学が上記の方法のいずれかよりも優れているとするならば、それを証明するには『重力の虹』のような文体の広い本が必要だ。

この本が何を目指しているのかを知るためには文学以外のジャンル、あえて言えば、人生が人生自身を表現してきた形も知らなければならない。この形には科学やポップカルチャーだけでなく、普段は誰にも気にも留められないようなもの、失われたもの、”framed”されていないもの、デザインされていないものが発信するメッセージも含まれている。彼らの存在の兆候は、高速道路沿いのゴミ、車のトランクのゴミ、官僚の引き出しの中のものの中に見出される。この廃棄されたものたちを記録していくという点で、ピンチョンは『重力の虹』でも『競売ナンバー49の叫び』でも、ドライサー以降最も痛烈で悲痛なリアリストである。

 

これは、ひどく取り憑かれた本だ。この本は、ニューヨークや他のどこかの文学界から完全に孤立した男によって書かれている。この孤立こそが、フィリップ・ロスのような作家が陥る限界である、文学的な様式や作法についての無粋な自己陶酔から彼を解放したものである――”The Breast”よりも20倍優れているし、ソウル・ベローの”Mr. Sammler’s Planet”より少なくとも10倍は優れている。

ピンチョンは現代の生活のあらゆる側面に極めて敏感であり、あらゆる形の視覚・聴覚を感受し、最もありふれた、最も陳腐な物事についても分け隔てなく受け入れている。

「私は自分の多様性よりも優れたものに抵抗する」というホイットマンの言葉は、ピンチョンにも言えることだし、彼の本をロケットなどの現代的なものすべてを凝縮したものにしている無尽蔵で弾性的な合成の力にも言えることだ。しかしピンチョンは彼の時代が抱える統合失調症的なパラノイアが現代だけのものだとか、化物じみたテクノロジーによるものだと叫ぶにはあまりに歴史を知りすぎている。

スロースロップの家系は1630年の偉大なピューリタン船団の旗艦であるアルベラ号に乗っていた乗組員の一人である植民者ウィリアム・スロースロップに辿ることができ、また、「選ばれしもの」と「打ち棄てられたもの」、つまり、見捨てられた者、救いに選ばれなかった者との関係について、ほぼ異端的な本を書いたウィリアム・スロースロップにも辿ることができる。ピュリタニズムは、選民の兆候を探し、残りの人類とその証拠を目に見えないものとし、打ち棄ててしまうように私たちを条件付けたパラノイアの初期のバージョンとして描写されている。したがって本書は、グロテスクな妄想、すなわち、命の不平等と天の印の不平等というファウスト的な幻想のために犠牲にされた人間性についての、深遠な(そして深遠に笑える)歴史についての瞑想である。

 

 

 

リチャード・ポワイエによる『重力の虹』最初期のレビューを翻訳してみる ④

③↓ 

kambako.hatenablog.com

 

 

30年ほど前から流行している文学の分析的な研究によって事前に研究されることなくして、今現在このような本を楽しめる読者はいないだろうし、また今後も難しいだろう。『V.』や関連する現代小説家の作品(ウィリアム・バロウズとか、who shares(訳注:意味がわからなかった))でも語られているように、ピンチョンは技術(特に映画技術)の形而上学的な示唆や、心が映画の映写機のように統合失調症的に機能する方法を敏感に感じ取っている。

しかし、ピンションやバロウズのような作家が現代文学批判の副産物であるという議論は些細なことだ。なぜなら、『重力の虹』を読んである意味では最もよく思い浮かぶ『白鯨』と『ユリシーズ』の2冊の本が、文学批判によってそうすることが流行になったという理由ではなく、文化の内的性質がそれを必要としたという理由によって『重力の虹』と同種の複雑性を抱えているためである。そして、『重力の虹』は前記2冊からさらなる進化を遂げているという理由から、ピンチョンが現代文学批判の副産物であるという議論はなおさら的外れなものと言える。その進化とは、『重力の虹』が単なる文学教育とセンスでは不合理や不快に感じてしまうような進歩、すなわち文化の継承を取り扱ったという点にある。

 

 一見似ているように思えるが、これらの3つの作品(訳注:『重力の虹』『白鯨』『ユリシーズ』)は世界を同じようにとらえているわけではない。歴史的な理由だけ考えても、人間の人格構造についての根本的な考え方が3つの作品が作られる間に変化していることもあって、これらの作品は互いに大きく異なるものになるはずである。

3作品が似ているところは、ときに文学やハイカルチャーの外で開発された技術に準拠して、臆することなく世界を形作っていこうという意思にある。3冊の本はすべて、作品を巡る世界で機能している力、すなわち映画や漫画や行動心理学のような、小説という領域の外において小説家が事態を呑み込む前から人生をフィクションに変えてしまおうとしている生の「集合体」のような力を取り入れているのだ。だからこそ、三冊とも文学から派生したものとは別の様式や形式から翻訳したものに満ちているのである。

『白鯨』のレトリックは、シェイクスピアの作品と同様に、メルヴィル自身の時代の政治的な口調に由来することが多い。

ユリシーズ』には、ホメロスと同じように新聞や音楽堂が登場する。

重力の虹』には映画がいたるところに登場する。まるでミュージカル・コメディのように、どのシーンも歌詞へと変えることができる。漫画もいたるところに登場する。直接言及されているのはプラスチックマンとSundialだが、スーパーマンバットマンキャプテン・マーベル第二次世界大戦の漫画のスーパーヒーローが、多くのキャラクターのトーンと行動に影響している。

今では周知のことであるが、『重力の虹』において、特にジョン・バースボルヘスのような作家とピンチョンが異なるポイントは、ピンチョンは彼らのように、技術や大衆文化、文学的慣習をパロディ的な精神で利用していないということである(『V』のころはピンチョンにもそういった傾向があったが)。ピンチョンは「人間の本質や歴史を明らかにするという点において文学的なアプローチが科学的なアプローチに劣っているわけがない、そんなことは冗談だ」と考えるほど文学オタクではない。

 

コーネル大学で工学を専攻していたピンチョンは、科学的アプローチの中にあるイマジネーションのことを知っているし、それを尊重してもいる。

もし彼を映画やスーパーコミックの研究者であるとするならば、それ以上に数学の研究者であると言えることだろう。ピンチョンが修めている知識は他にもある。特に、有機化学クラシック音楽の間奏の理論があげられるだろう。作品中のすべての音符が平等に聴こえる「ドデカフォニック・デモクラシー」の可能性などについては、ピンチョンはグレン・グールドから学んだのかもしれない。

ベートーヴェンに「ドデカフォニック・デモクラシーがあるかどうか?」はともかく、ピンションにある種の「カルチュアル・デモクラシー」があるのは確かだ。ピンチョンの「カルチュアル・デモクラシー」はハイカルチャーに対するノスタルジーを見せるメルヴィルジョイスのそれとは異なる。ハイカルチャーに対するノスタルジーはピンチョンにはない。ピンチョンはアメリカの青春時代の失われた瞬間、特に映画鑑賞についてノスタルジックに語る傾向があり、彼の考えるキャラクターは、他のフィクションよりも、映画的なメディア、ポスト・フロイトの心理学、ドラッグに由来するものが多い。

 

ピンチョンが執筆しようとする視点は、無限に近いほど広く、扱いが難しく、現代文学の中で最も幅広い。しかもそれを実際やってのけてみせた。彼の才能は見る能力、すなわち、一見多様で混沌としたこれらの様々な視点が、どのようにして同じ技術から生まれたのか、どのようにして17世紀の神学と19世紀の科学に基盤を持つ同じ支持構造から生まれたのかを、感覚的に見る能力にある。

その好例が、写真における「フレーム」と呼ばれるもの、すなわち映画とロケット工学における加速度と「フレーム」の関係、そしてこの関係が人間のイメージに及ぼす影響についての彼の探求である。ペクラーのロケットに関する研究については、戦前の実験では、ロケットの模型をハインケ飛行機で2万フィートから落下させ、「落下の様子を地上のAskania Cinetheodoliteで撮影した」と言われている。Daily rushes(訳注:アメリカの辞書ブランド)では、模型が音速を突破した3,000フィート付近のフレームを見ることができる。ドイツ人の心と、動きを近似するための連続的な静止画の明滅の間に、少なくとも 2 世紀の間、この奇妙なつながりがあった―ライプニッツ以来、微積分を発明する過程で、空気中の大砲のボールの軌道を分割するために同じアプローチを使用している。そして今、ペクラーは、これらの技術がフィルム上のイメージを超えて、人間にまで拡張されていることを証明しようとしていたのである。

 

このような見方の文章、つまり技術的な手法やその前段階に当たる分析的な手法が最終的に人間のゆがみにまでつながることを示した文章は、この本のいたるところにあふれている。このような考え方は、ヘンリー・アダムスとヘンリー・ジェームズの才能を組み合わせたような瞑想的な心と思考の次元を示している。メイラーにも似たような考え方を見つける人もいるかもしれないが、メイラー式の強調で言うところの「小説家の想像力」を超えたところに人間の本性の探究の形があるということ、すなわち小説家の想像力はしばしば数学や有機化学の想像力よりも包容力や大胆さに欠けることを認める勇気を示さなかったことは、まさにメイラーの限界である。ピンチョンはそれをずっと認めてきたのである。

 

テクノロジーが人間に及ぼす影響を記録したり、テクノロジーの手法をその調査や作劇に応用したりしているというだけではピンチョンを語りつくしたことにはならない。多くの作家がそうしてきたし、今もそうしている。彼がやっていることは、歴史的にも文学的にもそれらよりもはるかに重要なことだ。

彼は、テクノロジーの手法や現代の分析方法の中に植え付けられた人間の意識の種類を特定しようとしている。テクノロジーの歴史的な影響を記録しようとしているだけでなく、その中に人類の歴史を探そうとしている。ベンゼン環の形状を発見したケクレの夢はピンションにとって、『フィネガンズ・ウェイク』の中の夢と同様に美しく、人間の本性を明らかにするものであり、神話的なのだ。

ペクラーとその娘のエピソードにおいてピンチョンは、上司から与えられた飴と鞭の中で、自分が自分の好みの人に陰湿なまでに適合してしまっていることを哀れな男がどのように認識するようになるのかを示している。彼は年に一度、ツヴェルフキンダーと呼ばれる子供の町で、長い間行方不明だった娘に会うことを許されている―しかしその娘が去年来た少女と同じ人間なのかどうか、彼には判別できない。「それからの六年はそんな調子だった。年に一度の娘、ちょうど一年大きくなった娘、そんな娘がいつも寄せ集めの中から現れた。唯一の連続性は彼女の名前、ツヴェルフキンダー、そしてペクラーの愛――1つの見方に固執するかのような愛、ペクラーに娘の動くイメージを作らせるため、夏の日のフレームをよみがえらせるため、ペクラーに一人の子供の幻影を作らせるために<かれら>はそれを利用した――時は流れ、24年目の夏(ペクラーは思った、風洞や、回るドラムのオシログラフと同じように、おまえらは意のままに速度を調整できるのか?……)」。ペクラーは彼女を「映画の子供」と呼んでいた。それは、彼女を受胎した夜、彼が妻とのセックスに目覚めたのは、1930年代のマルゲリータ・エルドマン主演のポルノ映画がきっかけだったことを覚えているからだ(マルゲリータ・エルドマンは後にスロースロップと逢瀬を重ねる)。

 

その意味で、愛すべき子供は映画から生まれたようなものであり、ちょうどペクラーが開発に関与したロケットにゴッドフリートが”framed”されたように、ペクラーの娘もペクラーによって”framed”された。そして、映画もロケットも同じ分析的・技術的遺産に由来している。

 

小説の中の誰もがある程度同様に”framed”された存在であり、~(ここからprepared for himまでよくわからなかった)。

重力の虹』のラストにおいて、最も”framed”されたスロースロップは、シカゴでのあの夜、デリンジャーの血にそれを浸したと言われる布切れを相棒の喧嘩っ早い水兵ボーディーンから渡される。デリンジャーは死ぬことで「フレーム」から抜け出した。ゴットフリートは破滅することで「フレーム」から抜け出した。スロースロップはロケットを見つけるための「フレーム」が必要なくなると、自己を少しずつ分散させて、最終的に「フレーム」から抜け出した。彼は小説の中で迷子になり、「薄くなって散っていく」ようになり、再び「発見される」(辞書的な意味で言うところの、「積極的に識別され拘束される」)ことができるかどうか疑わしいまでになった。

 

「フレーム」から抜け出す唯一の良い方法は、周辺視野へ救いを求めて降伏することだったようだ。どうやら、そこにしか愛はないらしい。特に思春期の少女への並々ならぬ親愛の情を持ったピンチョンにとっての愛は、そこにしかないようだ。

スロースロップがビアンカと寝た時、スロースロップはビアンカの中に臆病でおびえた欲望を感じ取った。(ビアンカマルゲリータの愛娘であり、彼女もまた映画の子である。彼女の母親は乱交パーティーの最中に彼女を妊娠した。その乱交パーティーは後にペクラーがもう一人の「映画の子」であるイルゼを妊娠させるきっかけになる。)

ビアンカ”framed”されることから逃れたがっていた。スロースロップは子供の頃、女の子を探してニューイングランドの故郷の道を車で走り回っていた時に、同じような可能性を垣間見たことを覚えている。「今の彼女の表情―この深まる拘束―は、スロースロップがもはや壊してしまった心だ。壊れに壊れた、昔車を走らせていた時に同じものを見た、蛾と崩れた住処、やせた曇りシリンダーのガスポンプ、錫のモクシーのサインのリンドウ豆の苦くて甘い味にも同じものを見た、納屋の風化した側面にハッスルした時にも見たし、バックミラーでなんど同じものの最後の時を見ただろう、すべては遠く金属と炎の中へ行ってしまった、驚きとか、マーフィーの法則とか、そういうものによって現れるかもしれない何よりもリアルな目標、救いはそこにあるはずだった」

 

アメリカの青春時代のイメージ自体は気取らず正確ではあるが、実のところそれは”framing”のイメージに属しており、それはひいてはこの本の歴史観全体に属している。この本の歴史観は一般化にも抽象化にも依存せず、日常の経験の色や質感、細かさに彩られたイメージを持つ心からの自然な発散として自立している。もちろん、他にも同じように反響する構造や集合体はいくらでもあるが、それらのかなりの数は、この種の人間的な感動を伴わないように設計されている。

一つの明白な例は、二つの細長いSに似た二重積分の記号である。それはロケットの加速度の前提となる数学的な公式であり、ナチスSSのマークであり、ノルトハウゼンのトンネルの形であり、二人の恋人たちがベッドに横たわる形である。この種のパターニングは退屈なゲームになっていて、ピンチョンでは、それが露骨な場合には、高度ななりすまし、あるいは機械的パラノイアの症状として現れる。

 

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