『僧正殺人事件』 偉大なる後進

(途中から本作を含め複数のミステリのネタバレがあります) 

 

僧正殺人事件 (S・S・ヴァン・ダイン全集) (創元推理文庫)

僧正殺人事件 (S・S・ヴァン・ダイン全集) (創元推理文庫)

 

 

古典ミステリの大御所ヴァン・ダインの代表作。

歌や俳句などになぞらえて殺人事件が起こる「見立て殺人」の代名詞でもある。

 

今回見立てられたのはマザー・グース

マザー・グースの見立て殺人としては『そして誰もいなくなった』が有名だが、年代的には当然こちらの方が10年古い。

作品のカラーとしては『そして~』がホラーであるのに対しこちらはサスペンス。

犯人を追い詰めるシークエンスについては手に汗握るものがある。

そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 

登場人物も『グリーン家殺人事件』よりキャラが立っている。

ドラッカー親子はギャグマンガに出てきてもおかしくないような目立ちっぷりだし、パーディーの哀れさには目を引くものがある。

ファイロ・ヴァンスは好みの分かれる名探偵だが、個人的に嫌いではない。

全国n人のヒース部長ファンにはニヤニヤが止まらないシーンもあり、現代から見た評価ポイントはこのあたりのデフォルメの効いたサスペンスパートに集約されそうだ。

 

ただし、それ以外の部分についてはミステリ面でもストーリーテリング面でも高評価は難しい。

それは、本作が偉大な2作の後輩を生み出してしまったからだと思う。

 

ミステリ面では『ABC殺人事件』。

ストーリーテリング面では『Yの悲劇』である。

 

 

(この先ネタバレ)

 

続きを読む

『NO MORE HEROES』 乾いたリヤルに血がぬめり

人生の数、というものについて考えたことがある。

道行く人々それぞれに人生があり、事情がある。

電車で隣に座った青年はこれから人生を決める選択をするのかもしれない。

茶店で話し合う二人は今まさに逃避行のさなかかもしれない。

目まぐるしいそれぞれの人生の中で、私たちは微かにすれ違う。

「隣にいた」という記録だけをお互いに残し、そして二度と交わらない。

それが街角の雑踏の中でも、命を賭けた鉄火場の中でも、私たちはお互いの背景を知ることなく交わり、そして別れる。

その意味で、『NO MORE HEROES』は限りなくリアルな物語だ。

殺し屋たちは殺し、殺される。

悪役のプロフィール、「あいつも被害者なんだ」式のウェットな筆運びは、ここでは明確に否定される。

ここにあるのはどこまでもドライなリアリティ、アメリカ西海岸のあの乾いた風である。

 

NO MORE HEROES』はWiiで発売されたゲーム。

日本ではあまり知られていないが、海外での評価は非常に高く、「Wiiで最もプレイすべきソフト」なんて評もザラにある。


No More Heroes - Wii Trailer

ストーリー構成自体はシンプルである。

殺し屋ランク11位のオタクが、謎の女と出会い、ランク1位になるお話。

立ちはだかるのはそれぞれで1本くらいゲームが作れそうな、強烈なキャラのランカーたちだ。

 

例えば9位。

ネイティブアメリカンの悪徳警官。

二丁の黄金銃をブチかますカウボーイ。

娘が口をきいてくれなくてパパ悲しい。

 

例えば6位。

義足のモデル。

元傭兵で文学少女

セクシーポーズでミサイル発射。

 

でもそんなことはどうでもよいのだ。

ひとたび剣を抜けば、そこにいるのは獣二匹。

血に飢えたBlood Junkyが二人いるばかり。

彼等は殺し、殺される。

相手の積み重ねた人生を知ることもなく、彼らは永遠に別たれる。

書き割りみたいな青空の下、ビームカタナの閃光に照らされた世界の中で、そのリアリティだけが赤くぬめるのだ。

 

感覚的には『ソナチネ』に近い。

もっとも、あちらに沖縄の湿っぽさが漂っていたのに対し、こちらには西海岸の乾いた空気が流れているのだが。

 

須田51のストーリーテリングもさることながら、それを十全に表現しきったグラスホッパーゲームスにも拍手を送りたい。

特にモデリングと音楽。先ほどの9位の表情とか最高だと思う。2位の明らかにヤバい目とかも。完膚なきまでにイカレた造形してる。

 

NO MORE HEROES』は間違いなく最高のストーリーゲームである。

ともすれば細密な、作品世界すべてをプレイヤーの掌中に渡してしまいがちなゲームと言う媒体において、この作品から噴き出す生暖かいリアリティは特異である。

そして私たちはこの『NO MORE HEROES』からも別れていくのだ。

このゲームがくれたリアルを、血の奥底に携えて。

 

 

習慣紹介 週末プロジェクトノート

「習慣は第二の天性である」という言葉がある。

正直今時習慣の重要性なんて耳タコなのだが、まあ事実だとは思う。

習慣は複利で効く、の方が実態に即している気もするが。

 

というわけで導入しているいい習慣を紹介しようと思うのです。

第一弾は週末プロジェクトノート。

 

【こんな人におすすめ】

-やりたいことはいろいろあるが何もしない

-休みの日を無駄にしてしまう

-いろんなスキルを身につけてみたい

-自分のやりたいことが見つからない

 

【準備するもの】

-できるだけ大きなサイズのノート

-赤と黒のペン

 

【手順】

① ノート1Pにやることを書く

 まず自分のプロジェクトを洗い出す。

 やってみたいこと・やっとくと後で役に立ちそうなこと・用事などをひたすら書き出す。

 書くことが思いつかない人は「資格一覧」とか「趣味一覧」とか「死ぬまでにやってみたいこと」とかググってみる。

 このタイミングではとにかく数を稼ぐことが大事。

 30分以上かかりそうなことはすべて書いてみよう。

 金曜日の夜か土曜日の朝にやるのがオススメ。

 

② やることを3つ選ぶ

今週やることを3つだけ選び、目印をつける。

3つ以上になると結局どれもやらない。

3つ以下になると空き時間にすることがなかったりする。

あまり深刻に考えず、とにかく決めることが大事。

 

③ やる

選んだことをやる。

選んだ3つを優先させるつもりで動こう。

ただし縛りすぎるのもよくない。

結果的に1つしかしなかったり5つやったりしても別に構わない。

 

④ 前の週の残りを書き写す

次の週の金曜日or土曜日の夜、前の週に書いたページを書き移す。

その際、「もうしないな」「もう済んだな」と思ったものは書き写さない。

自分の興味に合わせてゴリゴリ削ってかまわない。

 

⑤ ②に戻る

②に戻ってまた週末を送る。

これの繰り返し。

 

【どう役立つの?】

-やりたい止まりで終わることを防ぐ

 ぼんやり「やりたいなー」と思っているだけでは進まなくても、週末プロジェクトノートなら取りあえず3つくらい進めることができる。

 書き出すことで自分の本気度を確かめることもできる。

 やってみればわかるが、書き出すのに結構時間がかかるため、自然とプロジェクトの数は減っていく。

 こうすることで本当に自分が望んでいることにエネルギーを集中させることができる。

 

-休みの日を無駄にしなくなる

 3つ選んだうち1つでもできれば、無駄に休みを送った気分にはならない。

 考えて選んだ末結局1つもしない、ということは少ないので、少しずつでも前に進んでいる感覚が得られる。

 

-自分のやりたいことが見つかる

人のオススメを書き出して足したり削ったりしている内に自分に合っているもの、やりたいものを見つけられる。

少なくとも、「もうこれをしようとは思わないな」というものは見つけることが出来、ぼんやりとやりたいことを迷うだけではなくなるだろう。

 

-いろんなスキルを身につけられる/いろんな経験を積める

何かを身につけるには1000時間かかる、というのは有名。

しかし、素人レベルでこなすだけなら20時間で大丈夫と言われる。


The first 20 hours -- how to learn anything | Josh Kaufman | TEDxCSU

20時間。

20時間である。

土日ガッツリ潰せば丁度20時間くらいではないか?

週末プロジェクトノートで色んなことを20時間ずつこなしていけば、いろんなスキルを低コストで身につけられると思う。

1000時間かけるだけのものがあれば、習慣化アプリに取り込もう。

 

 

まあこんな御大層なこと言ってるけど数ヶ月ブログを放置してたりするので、今後も改善していこうと思います。

別の習慣も紹介するかも。

では。

 

 

『行ったり来たり』 物語の最小要素

2019/2/8の収穫。

2018年版マイベスト映像編21。

 

Beckett on Film [DVD]

Beckett on Film [DVD]

 

 

これから書く文章は野暮である。

 

科学の世界では、最小要素を探求することは1種のセオリーである。

分子から原子へ、原子から素粒子へ。

最小要素を求めることは、すなわち自然界のシステムを再構成するための歯車を得ることに他ならない。

 

では、物語の最小要素とは何か?

それがこれである。

 

女が3人。

1人が席を立つと、残った2人が秘密の会話。

「それ、本当?」

「知らぬが仏ね」

1人が戻ると別の1人が席を立つ。

 

これを3回。

 

女たちはそれぞれ自分以外の2人の秘密を握っている。

握ったうえで、黙っている。

秘密と嘘。

情報の偏り。

 

3人は互いに手を取る。

握手の板の下には、嘘と感情の海が広がっている。

しかし、彼女らの思いが明かされることはない。

この世は舞台、人はみな役者。

舞台にいる内は奈落は見れない。

 

サミュエル・ベケットは自作の演出には非常に厳格だったという。

いささか乱暴に見えるその逸話も、これを見てしまうと頷かざるを得ない。

こんなにミニマムに作られた作品なら、どこを弄っても蛇足になる。

 

ここまで書いた文章は野暮である。

作品以上に長い解説文など、野暮にほかならない。

どうせ野暮なら、もう一つ蛇足を加えて終わるとしよう。

 

「およそ芝居などというものは、最高の出来栄えでも影に過ぎない。最低のものでもどこか見所がある。想像で補ってやれば」

 

笠置、冬、霧雨の昼下がり

笠置に行った。

f:id:Kambako:20190122203948j:image

f:id:Kambako:20190122201528j:image

駅に着いてまず気付いた。

驚くほど静かだ。

遠くで車が走る音。川のせせらぎ、鳥のさえずり。

それ以外の音は何一つ聞こえない。

 

人のいない世界。

人の去った世界。

錆ついた霧雨の駅は、そんな空想をかきたたせる。

 

 

f:id:Kambako:20190122201724j:image

そう、その日は霧が出ていた。

笠置大橋を見下ろす山々は霧に覆われ、冷たい湿気が頬をかすめる。

 

f:id:Kambako:20190122203109j:image

霧の中に明滅する建物。

深い山の只中で、一体何するところやら。

 

f:id:Kambako:20190122202428j:image

雨を帯びてかすかに湿る道路。

絶え間ない川霧を受けて、橋の赤はくすんでいる。

 

f:id:Kambako:20190122203456j:image

横手に目をやれば山間を通る木津川が見える。

遠くに見える巨岩。

後で聞いたが、老舗のボルダリングコースらしい。

晴れた日はここも賑わうのだろうか。

 

f:id:Kambako:20190122202658j:image
f:id:Kambako:20190122202654j:image
f:id:Kambako:20190122202703j:image

起伏のある土地らしい。

坂に沿って家が建ち、廊下は宙に浮かぶ。

張り巡らされた雨水溝が町の空気を湿らせて、朽ちかけた人の痕跡を塗り潰していく。

 

f:id:Kambako:20190122203231j:image

初めて来たはずなのに、どこかで見た光景。

高架下のひと時。

岩壁を這う枯れた蔦。

 

f:id:Kambako:20190122203359j:image

温泉宿も喫茶もビリヤードも、何一つ残ってはいなかった。

一体いつからこの町を見守っているのだろう。

 

f:id:Kambako:20190122204914j:image

温泉、笠置いこいの館。

去年春リニューアルしたとは思えない、痺れる浴槽だった。

内装の印象としては、温泉よりも老人ホームの方が近い。

何故か大量に健康器具があったが、誰も使ってはいなかった。

 

f:id:Kambako:20190122204904j:image

名物を期待して頼んだ笠置御膳だったが、海老が出てきた。

こんな内陸で海の魚介類に期待するのは野暮である。

野菜と漬物は美味しかった。

 

出てきてみると、地元の人々が野菜を交換していた。

溢れる笑顔、はしゃぐ子どもたち。

余所からやってきて寂れただの朽ちただの言ってしまったが、この町に住み、この町に生きる人々がいる。

 

帰りは少し暖かかった。

温泉のせいだけではないと信じたい。

 

『コープスブライド』 在りし日の"デッド"コピー

19/1/14の収穫。

 

『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』は非常に根強い人気を誇る名作である。

独特な世界観と優れた楽曲、純真イケメン(?)のジャックが人気の理由。

しかし、しばしば忘れられがちな要素が一つある……あれはジャックとサリーのラブストーリーなのだ。

 

ティム・バートンもそのことを不満に思ったのかもしれない。

コープスブライド』はまさしく、ラブストーリー要素を強めて『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』を作り直したような作品だ。

その結果どうなったかというと……すごくつまらなくなった。

 

第一の理由として、『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』で魅力的だった世界観が潰されてしまっていることがある。

順に見ていこう。

 

魅力的な世界観は3つの理由で失われている。

1つは構成の問題。

『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』がハロウィンタウンからスタートするのに対し、本作は現世からスタートする。

現世の人々はフランスアニメーション風に大きくデフォルメされており、我々は「このレベルのデフォルメはまだ記号扱いなんだな」「この世界では普通の姿なんだな」と認識する。

早い話、ツッコミレベルが上がるのである。

ツッコミレベルが上がってから死後のトンデモ人間が出てきても、インパクトが薄いのだ。

肉が残ってるやつらとか正直青塗りの人間にしか見えない。

 

2つ目はキャラクターバリエーションの少なさ。

死後のキャラクターの半分は前述の青塗り人間であり、3割は骸骨である。おばけやハロウィン関係なら何でもありだった『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』と違い、今作の異世界人は全て「死人」である。犬もいるけど。

大げさな前振りで出てきた長老がただの骸骨亜種だった時には思わず真顔になった。

 

3つ目は既視感である。

本作のキャラは正直『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』で見た感が強い。

まずヒロインのコープスブライドが厚化粧したサリーにしか見えない。それはしょうがないにしても、骨犬(名前忘れた)はどうみてもゼロだし、縦に裂ける人は市長の亜種だし……

 

コピー前の魅力がダメなら新要素はどうか。

つまりラブストーリーとしてはどうなのか……というと、これもまたイマイチである。

各キャラクターの行動原理がわかりにくいのだ。

 

もっともわかりにくいのが主人公のヴィクター。

ヴィクトリアに最初から惹かれているのならなぜ誓約をミスするのか。

夜1人になった途端なぜ大仰に動くようになるのか。

自由に憧れているのかいないのか。

『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』の純真なジャックとは大違い。

ハムレット型と言えなくもないが、あくまで主導権を握り続けているハムレットと比べ、ヴィクターはただただ振り回されているだけに見える。

雰囲気に流されてヴィクトリアに惹かれ、死後の世界に拉致されて元の家に帰ろうとし、ストーリーの都合でチャンバラする羽目になる。

主体的な意思があるように見えないのだ。

 

敵役のバーキスにしても何の因果で貧乏貴族に目をつけたのかわからない。下調べくらいしようよ。失敗だとわかったらとっとと町から出ようよ。最終盤、突然ワインを飲もうとするのについても御都合主義にしか見えなかった。

 

男連中に対してわかりやすすぎるのがヒロイン2人。

ただひたすらに愛に憧れる女たち。

こちらはいささかわかりやすすぎる嫌いがある。

 

唯一良かった点として楽曲がある。

特に"remains of the day"は割とお気に入り。

字幕の翻訳はいただけなかったが、それだけが唯一の評価点だった。



『クレオパトラD.C.』(原作) バブルという時代のイコン

19/1/10の収穫。

 

原作版。

スラム街の美少女がある日突然大富豪になっちゃって、迸る正義感のままにチャンチャンバラバラチャンバラバラ。

 

作者の新谷かおるは少女漫画風タッチと社会漫画風ストーリーを上手く織り交ぜた作風が特徴。

本作でもそれが発揮され、ゴルゴ13ばりに当時の社会潮流が紹介されたと思えば、かたやキラキラお目目のお嬢さんがドロドロ人情劇をバッサリ、である。

 

しかしその作風こそが本作最大の難点でもある。

主人公クレオとその仲間たちが、あまりに聖人的すぎるのだ。

俗と欲で形成された経済世界の中で、主人公たちだけが愛と友情のもとに行動する。

よく言えば強調されており、悪く言えば浮いている。

「スラム街で育った処女の美少女」という設定がそもそも世間離れしていると言えないだろうか?

欲の暗闇を背に、彼女たちだけに光が差している。

まさにバロックの時代の聖画のように。

 

ちょっと前にTwitterで出回った話を思い出す。

二次元美少女は3つの側面で構成されるという。

曰く、「太母」「処女」「娼婦」であると(ちょっと違うかも)。

その考え方で行くと、クレオは典型的な二次元美少女である。

他者に愛を説くオカンでありながら、少女趣味のうら若き乙女であり、事あるごとに露出する娼婦でもある。

一種の理想像であるということ。

それは、イコンとして祀られるための一つの条件でもある。

 

クレオアメリカ人であるということは大きな象徴的意味を持つ。

かつてチャップリンは資本主義に轢き潰される人間を描いた。

それに対し日本人は資本主義をサーフィンする植木等を描き出した。

しかし結局のところ、日本人には「資本主義を支配し、謳歌する日本人」は描き出せなかったのではあるまいか。

アメリカの大富豪の美少女」という遠い世界の住人としてしか、ビジネスも若さも愛も謳歌する、資本主義世界のイコンは描けなかったのではないだろうか。

 

本作の発表は1986-1991年。

まさにバブルとともに始まり、バブルとともに終わった作品である。

人間の欲望がどこまでも肯定されたあの時代に、人々は愛と友情のクレオパトラをイコンとして崇めた。

そして欲望の泡が弾けると同時に、イコンを捨てた。

それを「現実に立ち向かえるようになった」と見るのは、感傷に過ぎるだろうか?