『次元大介の墓標』 感想-身捨つるほどの女はありや-

次元大介の墓標 感想 身捨つるほどの女はありや

少し前の映画になるが、血煙の石川五右衛門見て思うことがあったので書いてみる。

ネタバレしまくり。

 

 


「次元回に外れなし」と人は言う。主にアニメ版part 2の次元メインのエピソードを指すことが多い。「国境は別れの顔」、「バラとピストル」、「シェークスピアを知ってるかい」、「次元に男心の優しさを見た」……そのどれもに共通するのは、次元・拳銃・そして、いい女である。
そもそも次元大介というキャラクターは、作者側からすると非常に動かしにくいキャラクターである。例えばルパンと一味が仲違いし、それぞれバラバラになってしまうシーン。ルパンシリーズではままある流れだが、その時一味のメンバーは何をしているだろうか?五右衛門は修行をしているだろう。不二子は別のお宝を追っているに違いない。では次元は? ただ街をブラブラして酒を飲んでいるのである。宮崎駿が「次元はルパンがいなければ、パッとしない殺し屋か用心棒で終わる男。何よりルパンのだめなところに安心を見つけ、ひとえにルパンと並んで歩いている男」と言ったように、次元にはルパン絡み以外に目的とするものがない。では作者はどうするか? 女を呼んでくるしかない。それも、「敵に回れば女も殺す」ような次元を動かすに足る、とびっきりのいい女を。
ここに五右衛門との違いがある。血煙の石川五右衛門で描かれたように、五右衛門は自分より強い相手がいれば放っておいても動くキャラクターである。だから組長のキャラクターを細かく掘り下げることはせず、ホークという敵の強さを描写する必要があったのだ。次元は違う。彼はシビアな世界に生きるハードボイルドな男である。やばくなったら逃げるし、不要な戦いは避ける。そんな彼を動かすためには「次元を動かすに足る女である」という描写が必要になるのである。

では次元を動かすに足る女とは、具体的にどんな女なのだろうか。それは、「目的」と「弱さ」という言葉に集約されると思う。まず、目的のない次元を動かすためには、女の側に強い目的がなければならない。先の例で言うのなら、モニカにおける亡命、サンドラにおけるヴィーナスである。一方で、その女は一人では目的を達成できないという弱さがなければならない。だからこそ次元が手助けする理由になるのである。次元が峰不二子に惹かれない理由がここにある。不二子は目的を一人で達成する強さを持っている。一方、モニカは一人では亡命を果たせなかったし、サンドラはヴィーナスを取り返せなかった。ルパンのように「ヒロインがヒロインだから助ける」というのは、次元には少々面映ゆい。惚れたから助けるのではなく、助けているうちに惚れるのが次元なのだ。

次元大介の墓標のクイーン・マルタは、この条件を完璧に満たしている。彼女には東西を結びつけるという強い目的があった。一方でその方法論はあまりにも理想主義に満ちており、事実彼女は東ゴルドの強かさの前に敗北することとなる。次元を動かすいい女であることが克明に示されることで、観客は次元の行動を理解することができるのだ。
クイーン・マルタが登場するシーンは5分にも満たない。彼女が喋っているシーンとなると、後編の数分間だけである。しかし私はこのシーンこそこの映画の根本であり、この映画でもっとも評価すべきシーンだと思う。