人生の数、というものについて考えたことがある。
道行く人々それぞれに人生があり、事情がある。
電車で隣に座った青年はこれから人生を決める選択をするのかもしれない。
喫茶店で話し合う二人は今まさに逃避行のさなかかもしれない。
目まぐるしいそれぞれの人生の中で、私たちは微かにすれ違う。
「隣にいた」という記録だけをお互いに残し、そして二度と交わらない。
それが街角の雑踏の中でも、命を賭けた鉄火場の中でも、私たちはお互いの背景を知ることなく交わり、そして別れる。
その意味で、『NO MORE HEROES』は限りなくリアルな物語だ。
殺し屋たちは殺し、殺される。
悪役のプロフィール、「あいつも被害者なんだ」式のウェットな筆運びは、ここでは明確に否定される。
ここにあるのはどこまでもドライなリアリティ、アメリカ西海岸のあの乾いた風である。
『NO MORE HEROES』はWiiで発売されたゲーム。
日本ではあまり知られていないが、海外での評価は非常に高く、「Wiiで最もプレイすべきソフト」なんて評もザラにある。
ストーリー構成自体はシンプルである。
殺し屋ランク11位のオタクが、謎の女と出会い、ランク1位になるお話。
立ちはだかるのはそれぞれで1本くらいゲームが作れそうな、強烈なキャラのランカーたちだ。
例えば9位。
ネイティブアメリカンの悪徳警官。
二丁の黄金銃をブチかますカウボーイ。
娘が口をきいてくれなくてパパ悲しい。
例えば6位。
義足のモデル。
元傭兵で文学少女。
セクシーポーズでミサイル発射。
でもそんなことはどうでもよいのだ。
ひとたび剣を抜けば、そこにいるのは獣二匹。
血に飢えたBlood Junkyが二人いるばかり。
彼等は殺し、殺される。
相手の積み重ねた人生を知ることもなく、彼らは永遠に別たれる。
書き割りみたいな青空の下、ビームカタナの閃光に照らされた世界の中で、そのリアリティだけが赤くぬめるのだ。
感覚的には『ソナチネ』に近い。
もっとも、あちらに沖縄の湿っぽさが漂っていたのに対し、こちらには西海岸の乾いた空気が流れているのだが。
須田51のストーリーテリングもさることながら、それを十全に表現しきったグラスホッパーゲームスにも拍手を送りたい。
特にモデリングと音楽。先ほどの9位の表情とか最高だと思う。2位の明らかにヤバい目とかも。完膚なきまでにイカレた造形してる。
『NO MORE HEROES』は間違いなく最高のストーリーゲームである。
ともすれば細密な、作品世界すべてをプレイヤーの掌中に渡してしまいがちなゲームと言う媒体において、この作品から噴き出す生暖かいリアリティは特異である。
そして私たちはこの『NO MORE HEROES』からも別れていくのだ。
このゲームがくれたリアルを、血の奥底に携えて。