『V.』のことを考えるとき、一つのヴィジョンが頭によぎる。
星のきらめく宇宙に浮かぶ17個の小惑星。
まるで漫画の隕石やチーズのように、小惑星には無数の穴が開いている。
それらは数珠状に束ねられ、音もなくゆったりと回転している。
惑星を束ねる一本のライン、Vという名の女の物語。
『V.』はピンチョンのデビュー作である。
デビュー作「だから」なのか「なのに」なのか知らないが、とかく難解という下馬評ばかり流れている。まあそもそもピンチョンが難解と言われがちだし、実際わりと難易度は高いと思う。
バカでかいハードカバー本上下巻という物理攻撃もあって、「読んでみたいけど手を出しづらい」本の一つだった。
そんなこんなで事前ハードルはかなり高かったのだが、いざ読み始めてみるとスイスイ読めてしまう。読みながら先が気になるというのは実際結構久しぶりの体験だった。
自分の場合は、『LAヴァイス』と『競売ナンバー49の叫び』を先に読んでいたというのも大きいと思う。
処女作にはその作家の全てが詰め込まれているなんて話もよく聞くが、この『V.』でも後の作品が副読本としてうまくガイドラインを引いてくれた。
『LAヴァイス』は過ぎていく時代・歴史に対する郷愁の物語である。
時代に取り残されたヒッピー探偵ドックが、もがきながらも一人の男を次代に救い上げる物語。その背後には歴史の裏側で暗躍し続ける組織があり、ドック自身は大麻と歴史の霧の中へと消えていく。
しかし時を避けることはできない。時の海を、記憶と忘却の海を。約束された日々は過ぎ去り、もはや取り戻せない。よりよき運命を手にすることができそうに見えた地も、結局は誰もがよく知る悪人たちに襲われ、奪われ、人質として未来の手に取られた中で、我々は永遠に生きていかねばならないのだ。この祝福された船が、よりよき岸辺に着けることを、大海に溺れず、ふたたび隆起して贖われたレムリアの地に着けることを、アメリカが、慈悲深くも、その運命をあらわにせずにすむ地へ行き着けることを願わずにはいられない。
語り口こそ異なれど、『V.』もまた歴史と時代についての物語である。
ステンシルの調査は(アマチュアの模倣とはいえ)まさしく歴史家の所業だし、不器用男プロフェインとドックはどことなく面影が似ている。
マルタ詩人は時代の中に置き去りにされた自分の一部をファウストⅡと呼び、老ゴドルフィンは移ろいゆく時代を語る。
わしも歳を取ったし、世界も歳を取った。しかし、世界はずっと変わっていく。わしらが変わるのはここまでだ。
過ぎ去った時代、失われたヴィーシュー。
それらの対するピンチョンのまなざしは共通して美しく、それ故に悲しい。
『LAヴァイス』が歴史についての話なら、『競売ナンバー49の叫び』は現在についての話である。
主人公エディパ・マースは秘密組織トライステロの影を追うが、その一方でその存在を絶対視していない。不可知論の地震に足元をふらつかせながら歩いている。
同様の姿勢がステンシルにもみられる。ステンシルはV.という女についての「歴史」がある意味では自分の妄想に過ぎないことをハッキリと認識している。
だが、それより大事なのは、V.にも秘密があるということだ。彼女についてステンシルが得た情報は、ごく貧弱なものにすぎない。ステンシルの手元にあるもののほとんどは推測なのだ。彼女が誰なのか、何者なのかをステンシルは知らない。
戦場の霧、世界というシステムのとらえきれぬほどの奥深さ。
一方で、その曖昧さに対する態度はエディパとステンシルで大きく異なる。
曖昧さに翻弄され、パラノイアじみてくるエディパに対し、ステンシルはその点妙に明るい。地震の最中にタップダンスしてみせるかのように、妄想の可能性にあっけらかんとしている。
だが厄介なことに、ステンシルは、いつも無数のアイデンティティを抱えていて、そのうちどれを選んでも何の不自由も感じないらしい。ひたすら<V.の探究者>としての道を進み、その探求のためなら何にだって早変わりするのがステンシルという男なのだ。しかしV.が彼の正体なのではない。アイゲンヴァリューや、ヤンデルノたちの正体がV.でないのと、それは同じである。
安直かもしれないが、自分はこの態度にサルトルのアンガージュマンを思い出した。
(哲学の専門家ではないのであくまで自己流の解釈だが)アンガージュマンとはランダムな世界に対し「自分の意志で」意味づけするという行為である。
ステンシルもそれをしているに過ぎない。ステンシルは自らの意志で、歴史上のランダムな出来事をV.という紐でつなげようとしている。
その紐にV.を選んだのは偶然と、偶然に惹起された意志に過ぎない。
外部から与えられた意味づけに翻弄されるエディパとの違いはそこにある。ステンシルはV.という紐を持っているだけで、ステンシルの正体がV.なわけではない。
ところで上に引用したステンシルのアイデンティティについてのパラグラフは、そのまま『V.』という物語にも当てはまらないだろうか?
『V.』は17個の物語がV.という名の女で有機的につながれた構造をしている。
しかし、このつなぎ方は必ずしもV.でなくてもよい。
無機物VS有機物("シュミレール"プロフェインや悪坊主、レイチェルと車に人体模型など)というつなぎ方だっていいし、ツーリズムというつなぎ方だっていい。あるいはもっと簡単に年代順というつなぎ目だっていい。
つなぎ方に応じて17個の物語の順列は有機的に変化し、そのどれもが『V.』という一つの小説を形成する。
そういう意味で、『V.』の各章は多孔質である。どの穴にどの順で紐を通しても、17個の珠はつながりをキープする。
量子論的、状態の重なり合わせ。
無数の可能性が積み重なり、層を成したその形が、『V.』という物語なのである。
『V.』のことを考えるとき、一つのヴィジョンが頭によぎる。
数珠状に束ねられた多孔質の可能性たち。
このイメージも正しくない。
世界は変わり、人生は続くものなのだから。
仮にV.が歴史におけるリアルな存在であるなら、それは——慣例として女性代名詞でうける船や国家と同様、実際に「女」なのではない「それ」は——今日も作動しているに違いない。なぜなら、究極の<呼び名のない陰謀>は、いまだ実現を見ていないからだ。
Flip the Next Coin...
『重力の虹』:次回作。一部登場人物が共通。
『ブエノスアイレス午前零時』:V型構造の短編。