リチャード・ポワイエによる『重力の虹』最初期のレビューを翻訳してみる ④

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30年ほど前から流行している文学の分析的な研究によって事前に研究されることなくして、今現在このような本を楽しめる読者はいないだろうし、また今後も難しいだろう。『V.』や関連する現代小説家の作品(ウィリアム・バロウズとか、who shares(訳注:意味がわからなかった))でも語られているように、ピンチョンは技術(特に映画技術)の形而上学的な示唆や、心が映画の映写機のように統合失調症的に機能する方法を敏感に感じ取っている。

しかし、ピンションやバロウズのような作家が現代文学批判の副産物であるという議論は些細なことだ。なぜなら、『重力の虹』を読んである意味では最もよく思い浮かぶ『白鯨』と『ユリシーズ』の2冊の本が、文学批判によってそうすることが流行になったという理由ではなく、文化の内的性質がそれを必要としたという理由によって『重力の虹』と同種の複雑性を抱えているためである。そして、『重力の虹』は前記2冊からさらなる進化を遂げているという理由から、ピンチョンが現代文学批判の副産物であるという議論はなおさら的外れなものと言える。その進化とは、『重力の虹』が単なる文学教育とセンスでは不合理や不快に感じてしまうような進歩、すなわち文化の継承を取り扱ったという点にある。

 

 一見似ているように思えるが、これらの3つの作品(訳注:『重力の虹』『白鯨』『ユリシーズ』)は世界を同じようにとらえているわけではない。歴史的な理由だけ考えても、人間の人格構造についての根本的な考え方が3つの作品が作られる間に変化していることもあって、これらの作品は互いに大きく異なるものになるはずである。

3作品が似ているところは、ときに文学やハイカルチャーの外で開発された技術に準拠して、臆することなく世界を形作っていこうという意思にある。3冊の本はすべて、作品を巡る世界で機能している力、すなわち映画や漫画や行動心理学のような、小説という領域の外において小説家が事態を呑み込む前から人生をフィクションに変えてしまおうとしている生の「集合体」のような力を取り入れているのだ。だからこそ、三冊とも文学から派生したものとは別の様式や形式から翻訳したものに満ちているのである。

『白鯨』のレトリックは、シェイクスピアの作品と同様に、メルヴィル自身の時代の政治的な口調に由来することが多い。

ユリシーズ』には、ホメロスと同じように新聞や音楽堂が登場する。

重力の虹』には映画がいたるところに登場する。まるでミュージカル・コメディのように、どのシーンも歌詞へと変えることができる。漫画もいたるところに登場する。直接言及されているのはプラスチックマンとSundialだが、スーパーマンバットマンキャプテン・マーベル第二次世界大戦の漫画のスーパーヒーローが、多くのキャラクターのトーンと行動に影響している。

今では周知のことであるが、『重力の虹』において、特にジョン・バースボルヘスのような作家とピンチョンが異なるポイントは、ピンチョンは彼らのように、技術や大衆文化、文学的慣習をパロディ的な精神で利用していないということである(『V』のころはピンチョンにもそういった傾向があったが)。ピンチョンは「人間の本質や歴史を明らかにするという点において文学的なアプローチが科学的なアプローチに劣っているわけがない、そんなことは冗談だ」と考えるほど文学オタクではない。

 

コーネル大学で工学を専攻していたピンチョンは、科学的アプローチの中にあるイマジネーションのことを知っているし、それを尊重してもいる。

もし彼を映画やスーパーコミックの研究者であるとするならば、それ以上に数学の研究者であると言えることだろう。ピンチョンが修めている知識は他にもある。特に、有機化学クラシック音楽の間奏の理論があげられるだろう。作品中のすべての音符が平等に聴こえる「ドデカフォニック・デモクラシー」の可能性などについては、ピンチョンはグレン・グールドから学んだのかもしれない。

ベートーヴェンに「ドデカフォニック・デモクラシーがあるかどうか?」はともかく、ピンションにある種の「カルチュアル・デモクラシー」があるのは確かだ。ピンチョンの「カルチュアル・デモクラシー」はハイカルチャーに対するノスタルジーを見せるメルヴィルジョイスのそれとは異なる。ハイカルチャーに対するノスタルジーはピンチョンにはない。ピンチョンはアメリカの青春時代の失われた瞬間、特に映画鑑賞についてノスタルジックに語る傾向があり、彼の考えるキャラクターは、他のフィクションよりも、映画的なメディア、ポスト・フロイトの心理学、ドラッグに由来するものが多い。

 

ピンチョンが執筆しようとする視点は、無限に近いほど広く、扱いが難しく、現代文学の中で最も幅広い。しかもそれを実際やってのけてみせた。彼の才能は見る能力、すなわち、一見多様で混沌としたこれらの様々な視点が、どのようにして同じ技術から生まれたのか、どのようにして17世紀の神学と19世紀の科学に基盤を持つ同じ支持構造から生まれたのかを、感覚的に見る能力にある。

その好例が、写真における「フレーム」と呼ばれるもの、すなわち映画とロケット工学における加速度と「フレーム」の関係、そしてこの関係が人間のイメージに及ぼす影響についての彼の探求である。ペクラーのロケットに関する研究については、戦前の実験では、ロケットの模型をハインケ飛行機で2万フィートから落下させ、「落下の様子を地上のAskania Cinetheodoliteで撮影した」と言われている。Daily rushes(訳注:アメリカの辞書ブランド)では、模型が音速を突破した3,000フィート付近のフレームを見ることができる。ドイツ人の心と、動きを近似するための連続的な静止画の明滅の間に、少なくとも 2 世紀の間、この奇妙なつながりがあった―ライプニッツ以来、微積分を発明する過程で、空気中の大砲のボールの軌道を分割するために同じアプローチを使用している。そして今、ペクラーは、これらの技術がフィルム上のイメージを超えて、人間にまで拡張されていることを証明しようとしていたのである。

 

このような見方の文章、つまり技術的な手法やその前段階に当たる分析的な手法が最終的に人間のゆがみにまでつながることを示した文章は、この本のいたるところにあふれている。このような考え方は、ヘンリー・アダムスとヘンリー・ジェームズの才能を組み合わせたような瞑想的な心と思考の次元を示している。メイラーにも似たような考え方を見つける人もいるかもしれないが、メイラー式の強調で言うところの「小説家の想像力」を超えたところに人間の本性の探究の形があるということ、すなわち小説家の想像力はしばしば数学や有機化学の想像力よりも包容力や大胆さに欠けることを認める勇気を示さなかったことは、まさにメイラーの限界である。ピンチョンはそれをずっと認めてきたのである。

 

テクノロジーが人間に及ぼす影響を記録したり、テクノロジーの手法をその調査や作劇に応用したりしているというだけではピンチョンを語りつくしたことにはならない。多くの作家がそうしてきたし、今もそうしている。彼がやっていることは、歴史的にも文学的にもそれらよりもはるかに重要なことだ。

彼は、テクノロジーの手法や現代の分析方法の中に植え付けられた人間の意識の種類を特定しようとしている。テクノロジーの歴史的な影響を記録しようとしているだけでなく、その中に人類の歴史を探そうとしている。ベンゼン環の形状を発見したケクレの夢はピンションにとって、『フィネガンズ・ウェイク』の中の夢と同様に美しく、人間の本性を明らかにするものであり、神話的なのだ。

ペクラーとその娘のエピソードにおいてピンチョンは、上司から与えられた飴と鞭の中で、自分が自分の好みの人に陰湿なまでに適合してしまっていることを哀れな男がどのように認識するようになるのかを示している。彼は年に一度、ツヴェルフキンダーと呼ばれる子供の町で、長い間行方不明だった娘に会うことを許されている―しかしその娘が去年来た少女と同じ人間なのかどうか、彼には判別できない。「それからの六年はそんな調子だった。年に一度の娘、ちょうど一年大きくなった娘、そんな娘がいつも寄せ集めの中から現れた。唯一の連続性は彼女の名前、ツヴェルフキンダー、そしてペクラーの愛――1つの見方に固執するかのような愛、ペクラーに娘の動くイメージを作らせるため、夏の日のフレームをよみがえらせるため、ペクラーに一人の子供の幻影を作らせるために<かれら>はそれを利用した――時は流れ、24年目の夏(ペクラーは思った、風洞や、回るドラムのオシログラフと同じように、おまえらは意のままに速度を調整できるのか?……)」。ペクラーは彼女を「映画の子供」と呼んでいた。それは、彼女を受胎した夜、彼が妻とのセックスに目覚めたのは、1930年代のマルゲリータ・エルドマン主演のポルノ映画がきっかけだったことを覚えているからだ(マルゲリータ・エルドマンは後にスロースロップと逢瀬を重ねる)。

 

その意味で、愛すべき子供は映画から生まれたようなものであり、ちょうどペクラーが開発に関与したロケットにゴッドフリートが”framed”されたように、ペクラーの娘もペクラーによって”framed”された。そして、映画もロケットも同じ分析的・技術的遺産に由来している。

 

小説の中の誰もがある程度同様に”framed”された存在であり、~(ここからprepared for himまでよくわからなかった)。

重力の虹』のラストにおいて、最も”framed”されたスロースロップは、シカゴでのあの夜、デリンジャーの血にそれを浸したと言われる布切れを相棒の喧嘩っ早い水兵ボーディーンから渡される。デリンジャーは死ぬことで「フレーム」から抜け出した。ゴットフリートは破滅することで「フレーム」から抜け出した。スロースロップはロケットを見つけるための「フレーム」が必要なくなると、自己を少しずつ分散させて、最終的に「フレーム」から抜け出した。彼は小説の中で迷子になり、「薄くなって散っていく」ようになり、再び「発見される」(辞書的な意味で言うところの、「積極的に識別され拘束される」)ことができるかどうか疑わしいまでになった。

 

「フレーム」から抜け出す唯一の良い方法は、周辺視野へ救いを求めて降伏することだったようだ。どうやら、そこにしか愛はないらしい。特に思春期の少女への並々ならぬ親愛の情を持ったピンチョンにとっての愛は、そこにしかないようだ。

スロースロップがビアンカと寝た時、スロースロップはビアンカの中に臆病でおびえた欲望を感じ取った。(ビアンカマルゲリータの愛娘であり、彼女もまた映画の子である。彼女の母親は乱交パーティーの最中に彼女を妊娠した。その乱交パーティーは後にペクラーがもう一人の「映画の子」であるイルゼを妊娠させるきっかけになる。)

ビアンカ”framed”されることから逃れたがっていた。スロースロップは子供の頃、女の子を探してニューイングランドの故郷の道を車で走り回っていた時に、同じような可能性を垣間見たことを覚えている。「今の彼女の表情―この深まる拘束―は、スロースロップがもはや壊してしまった心だ。壊れに壊れた、昔車を走らせていた時に同じものを見た、蛾と崩れた住処、やせた曇りシリンダーのガスポンプ、錫のモクシーのサインのリンドウ豆の苦くて甘い味にも同じものを見た、納屋の風化した側面にハッスルした時にも見たし、バックミラーでなんど同じものの最後の時を見ただろう、すべては遠く金属と炎の中へ行ってしまった、驚きとか、マーフィーの法則とか、そういうものによって現れるかもしれない何よりもリアルな目標、救いはそこにあるはずだった」

 

アメリカの青春時代のイメージ自体は気取らず正確ではあるが、実のところそれは”framing”のイメージに属しており、それはひいてはこの本の歴史観全体に属している。この本の歴史観は一般化にも抽象化にも依存せず、日常の経験の色や質感、細かさに彩られたイメージを持つ心からの自然な発散として自立している。もちろん、他にも同じように反響する構造や集合体はいくらでもあるが、それらのかなりの数は、この種の人間的な感動を伴わないように設計されている。

一つの明白な例は、二つの細長いSに似た二重積分の記号である。それはロケットの加速度の前提となる数学的な公式であり、ナチスSSのマークであり、ノルトハウゼンのトンネルの形であり、二人の恋人たちがベッドに横たわる形である。この種のパターニングは退屈なゲームになっていて、ピンチョンでは、それが露骨な場合には、高度ななりすまし、あるいは機械的パラノイアの症状として現れる。

 

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