「人間は考える葦である」と言ったのはパスカルである。
「人間は心を持った機械である」と言ったのはデカルトである。
人間の定義は様々だ。他にも「遊ぶ人」(ホモ・ルーデンス)や「作る人」(ホモ・ファベル)などがある。「人間とは~」で始まる言葉は、名言集を引けば枚挙にいとまがないが、いずれにせよ「何かをする」ことが人間の定義だった。
では、バートルビーとは何だったのか?
彼は仕事も、思考も、すべてをやわらかに拒絶した。
彼はすべてのものを「しないほうがよい」と言い、生きることすらしなかった。
彼は「何もしなかった」。しかし彼が人間でないとしたら、いったい何と名付ければいいのか?
主人公の弁護士は書記としてバートルビーを雇い入れるが、バートルビーはいつの間にか事務所に住み着いてしまう。
彼には奇癖があった。筆写の仕事は黙々とこなすものの、それ以外の仕事は一切断るのだ。
どんなに小さなことでも、彼はこう言って拒絶する。
"I would prefer not to"(「そうしないほうがいいと思います」)
やがて彼は書記の仕事すら拒否するようになり、事務所から出ることも拒否するようになる。
生き馬の目を抜くウォール街の中で、バートルビーは固定された点のように、何もしない。
ただじっと、ウォール街の「ウォール」を見つめている。
本作を読み解く上での副読本は、やはり『白鯨』だろう。
『白鯨』でも『バートルビー』でも、メルヴィルの中心テーマは「理解できない何か」だ。
『白鯨』の場合のそれはモービィ・ディックであり、『バートルビー』の場合のそれはバートルビーだ(偶然かもしれないが、どちらもタイトルになっている)。
モービィ・ディックは海が持つ底知れぬ悪意の結晶である。誰にもモービィ・ディックの真意を読み取ることはできない(そりゃあ、クジラだからね)。
モービィ・ディックは(全面的にではないにせよ)人智の及ばぬ超常の存在としての一面を持っている。
一方バートルビーもまた、世人には理解されぬ存在だ。
仕事として当然手伝うべきことをしない。
クビになっても出ていかない。
食事はほとんど取らない。
睡眠と着替えはどうにかしているようだが、それも生存最低ラインを確保できているか怪しいものだ。
作品のほぼすべてを通して、バートルビーは人智の及ばぬ存在として描かれている。
語り部は彼を理解しようと試みるが、最終的には諦めに似た親愛をもって理解を捨てる。
そうだ、バートルビー、仕切りのそちら側に居続けるがいい、わたしはもう君を煩わせたりはしない。
このまま終わっていたら、おそらく本作はただの寓話で終わっていただろう。
しかし『白鯨』でも『バートルビー』でも、メルヴィルのすごいところはこの後にある。
バートルビーを人智を超えた存在として描く流れから、最後の瞬間に一気に飛び立ち、人間扱いするのだ。
そう、『バートルビー』の作品内において、バートルビーは寓意ではない。
どれだけ人間離れした行動をとろうとも、どれだけ語り部が理解できなくとも、バートルビーはやはり人間だ。肉体を持った、一人の人間として扱われている。
もしこれが寓話であったなら、読者は「バートルビーは何の象徴か?」と考えることだろう。
そして自らの理解の中にある何かをあてはめて、この本を閉じてしまうことだろう。
しかしこれは寓話ではない。バートルビーは何の象徴でもない。
いかに理解できなくとも、いやむしろ理解できないからこそ、バートルビーは人間だ。
そして人間だからこそ、生はかくも奥深いのである。
ああ、バートルビー! ああ、人間の生よ!
Flip the Next Coin...
『白鯨』:メルヴィルの代表作。長さも熱さも段違い。
『弥次喜多inDeep』:「寓話じゃない」としてBSマンガ夜話で取り上げられた。