『氷』 絶望の結晶がひとかけら

 

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

 

虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の尾根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。それは恐ろしくも魅惑的な光景で、人間の眼に見せるべく意図されたものとは思えなかった。その光景を見下ろしながら、私は同時に様々なものを見ていた。私たちの世界の隅々までを覆いつくす氷の世界。少女を取り囲む山のような氷の壁。月の銀白色に染まった少女の肌。月光の元、ダイヤモンドのプリズムにきらめく少女の髪。私たちの世界の死を見つめている死んだ月の眼。

ちくま文庫で再販されるまで希少本として有名だった一冊。

作者はアンナ・カヴァン

SF界の大御所に絶賛された本作は、しかしあらすじとしてはかなり素直。典型的なロードムービーの様相だ。

 

男が少女を追っている。

氷河期が徐々に近づき、崩壊していく世界の中で、少女はとある国へと逃げていったのだ。

少女を追ってたどり着いた国では、長官と呼ばれる男による独裁政治が敷かれていた。

男と少女、そして長官による三角関係。

迫りくる氷河から逃げながら、男は少女を捕まえ、また手放しながら旅をする。

 

都合上「氷河」と書いてしまったが、実際のところ「河」というのは語弊がある。

作中の氷河は水の川のような、足元から流れてくる流れではない。

それは壁だ。

人間のサイズをゆうに超えた巨大な壁が、人を、家を、生活を押しつぶしていく。

 

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温度も音も感じない氷の壁は、バトルロワイヤルゲームのエリア縮小のイメージに近い。もっとも、壁自体が非常に美しいのだが……画像はhttps://gameisbest.jp/archives/30755 より。

 

世界が狭まる。

滅びは避けられない。

気候はどんどん寒くなり、氷に覆われた地域はもはや立ち入ることも許されない。

地球をカバーしようとする氷からは、しかし冷たさを感じない。水晶のような氷だ。

この作品に登場する氷河は、観念上の氷と言ってもいい。

まさにビジョン。

氷のビジョンに囲まれて、形而上の少女が駆け回る。

 

氷の結晶の強烈な輝きに視力を奪われて、少女は自身もまたこの極地のヴィジョンの一部になったように感じる。自分という呼応増が氷と雪の構造と一体化したように感じる。みずからの運命として、少女はこの輝き揺らめく死の氷の世界を受け入れ、氷河の勝利と世界の死に自信を委ねる。

 

氷のビジョンはどこまでも鮮烈だが、人間たちの姿はひどくおぼろげだ。

語り部以外の心理描写はほぼ出てこないし、アクションシーンなんか「投げ飛ばした」の一言で終わってしまう。

有り体に言ってしまえば、おざなりな表現と言ってもいい。

本作に登場する人物は、氷と同じくらい概念上の存在だ。

長官と語り部は同一人物のように捉えられ、夢の中で少女の姿は明滅する。

氷のレンズを挟んだ向こう側で3つの影がぼやけて重なり、また離れていく。

  

『氷』の真髄はそのビジョンにある。

ほのかに輝く氷の壁。世界の終末。

閉ざされてていく円の中で、3つの影が踊っている。

個人的にはノリきれなかったが、このビジョンが稀有なことはよくわかる。

水晶の中に閉じ込められた2人の男と、1人の女。

光に透かして眺めたい、絶望の結晶。

 

周囲にめぐらされた壁の群れに、私たちは捕らえられていた。亡霊のような死刑執行人たちの輪がゆっくりと無慈悲に迫ってくる。私たちに死をもたらすために。私は動くことも考えることもできない。執行人の息が体と脳を麻痺させている。私は氷の死の冷気が触れるのを感じ、轟きを聞き、まばゆいエメラルドの亀裂を走らせて氷が割れるのを見る。 頭上はるかな高みで、ギラギラと輝く氷山の頂が、重いうなりを上げて震え、今にも崩れ落ちてこようとしている。少女の方にきらめく下、氷の白さに染まった顔、頬をかすめるほどに長いまつげ。私は少女を胸元に引き寄せ、固く抱きしめる。落下してくる山のような氷の巨塊を少女が見なくてすむように。