人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。
……すべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ。
大学の近くに家系ラーメンができた時、友達と一緒に行列に並んだことを思い出す。
ラーメンは味噌派の私に対して、その友達はこう言った。
「家系ラーメンは食後の水を味わうためのもの」。
食べた後の水のうまさを味わうためにラーメンがあるのだと。
なぜそんなことを思い出したかというと、目の前の小説のハイカロリーさと家系ラーメンが一瞬重なったからだ。
もっとも、『夜のみだらな鳥』はラーメンというより闇鍋だと思うが。
『夜のみだらな鳥』はチリの作家、ホセ・ドノソの小説だ。
ここではいろんなことが起こるが、大まかには3つの時代に分けることができる。
1つ目、青年作家ウンベルト・ペニャローサが大貴族ドン・ヘロニモに仕えていた日々。
影と光、召使と主人が入れ替わる、不能を巡る呪術譚。
2つ目、ウンベルトが畸形の楽園リンコナーダの管理者として送った日々。
「畸形」が「正常」、「正常」が「畸形」となる人工の世界。
3つ目、ウンベルトが変じた存在『ムディート』が、見捨てられた修道院で送る陰謀と混沌の日々。
物語はこの3つを行ったり来たりし、それに合わせてウンベルトも世界も姿を変じていく。
変身。そう、この本は変身に満ちている。
『夜のみだらな鳥』の世界において、人間は容易に姿を変える。
形を定めるのは名前、そして仮面。
ウンベルトが名前を失うとムディートに変じ、ムディートが仮面を被るとヒガンテに変身する。
ストーリーが時空と姿を絶えず行き来する一方で、そのラインが描き出す構造は常にシンプルだ。
『夜のみだらな鳥』は常に裏と表、2つの存在の対局構造の中に存在している。
きらびやかな表面の影に存在する、無秩序な暗渠の濁流。
例えば、主人と召使。
令嬢と老婆。
畸形とそうでないもの。
それらは時に入れ替わり、交差し、重なり合う。
世界で最も有名な魔女、マクベスの老婆たちが語ったように、『きれいは汚い、汚いはきれい』なのだ。
闇のなかの彼女たちはそうした不潔な汚れもので、それらを奪い取った主人たちだけではなく世間全体の、いわばネガを再現して楽しんでいるのだと。
この廊下や空部屋に大勢集まっている老婆たちの弱々しさ、貧しさ、寄る辺なさは、おれにもよく分かる。
そしてここは、この修道院は、彼女たちがその護符を隠しておくために、またその弱さを結集して裏返しの力と言うべきものを作り上げるために、やって来た場所なのだ。
『夜のみだらな鳥』の世界は極めて理性的だ。
取っている行動がいかに狂気的でも、いやだからこそその全体構造はリジッドな寓話に満ちている。
しかしいかに寓話性に満ちていても、本作の価値をその二極構造に見出そうとするのは間違いだろう。
理性的な暗喩構造は、あくまでも崩れ行く人工の世界に他ならない。
構造面が論理的であればあるほど、むしろその対極にあるものが暗く輝くのだ。
あの暗く朽ち果てた無秩序な迷宮の、どうしようもないほど強大な力が……たとえようもないほど歪んだ、あの美しさが。
「ラーメンは食後の水を味わうためのもの」。
『夜のみだらな鳥』も、そうやって味わうためのものに思える。
本を閉じ、せわしない日常の中で時たま生じる空白の時間に、吹き抜ける風と共に思い出すのだ。
混沌の濁流に呑み込まれていったあの伽藍を……夜のみだらな鳥が啼く、騒然たるあの森を。
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