感想が書きづらい作品だ。
戦争もSFも日常も、すべてがするりと流れ落ちてしまう。
読み終えたあと私たちの手に残るのは、そこになにかがあったという感覚だけ。
冬の流水に手を濡らしたような、厳しくも爽やかな感覚だけだ。
少なくともある側面においてはそうだ。
ある日突然時間から解き放たれたビリーは、自分の一生をランダムな時系列で体験する。
ある時は年老いた大富豪として。
ある時は宇宙人のペットである壮年地球人として。
そしてある時は、ドレスデン爆撃に晒される少年捕虜として。
ドレスデン爆撃はこの本によって知られるようになったのだという。
しかしその割に、この本の中での爆撃の描写はサラッとしている。
ドレスデン爆撃だけでなく、上記のSF設定についてもかなり軽い感じで書かれている。この本、大体においてすべてがサラッと流れていくのだ。
なかでも一番軽く流れるのは死についてだろう。この小説は死に溢れている。戦争シーンでもそうでなくても、そこらじゅうで人が死に、そのたびに作者はつぶやく。
「そういうものだ」と。
死体坑の数は、時がたつにつれ数百に増えた。はじめは臭いもなく、さながら蝋人形館であった。しかしまもなく死体は腐り、溶けだして、バラと芥子ガスのような臭いがこもった。
そういうものだ。
ビリーのパートナーであるマオリ人は、その臭気のなかで作業を命じられたため、肺気腫になって死んだ。彼は果てしなく嘔吐しながら、胸をかきむしって息絶えた。
そういうものだ。
とはいえ、作者が命を軽んじているというわけではないだろう。
むしろ逆のように思える。
冒頭で作者自身が語るように、『大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつないから』なのだろう。
『スローターハウス5』の世界は、あまりに悲しみに満ちている。
どうしようもない悲しみが多すぎて、浸ることさえかなわない。
ヒューマニストで有名なカート・ヴォネガット。
だが、その彼が見据える世界は生半可な楽観論など許しはしない。
世界は悲劇に満ち、人間はどうすることもできず、流された末に死んでいく。
ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある。
『スローターハウス5』の世界は絶望に満ちているが、その語り口はやはり軽やかだ。
ドレスデンで起こったことについても、ビリーは『わかっています』とだけ答える。
彼は言う。すでにすべては決まっているのだから、幸せな瞬間に意識を集中させるのだと。
暗闇の人生の中でも、安らかな瞬間を心に抱え続けること。それが重要なのだと。
悲しみをともに持つ、という言葉を作ったことがある。
友として悲しみに親しみ、供として悲しみと歩いていく。
絶望を生きるとはそういうものだ。
それでも人は、爽やかな風の中で問いかけるのだろう。
流れていった悲しみの、かすかな感覚とともに。
プーティーウィッ?
Flip the Next Coin...
クソったれな人生の中でいい部分を見つめる。
イギリスでは国民的な歌らしい。