『クレオパトラD.C.』(原作) バブルという時代のイコン

19/1/10の収穫。

 

原作版。

スラム街の美少女がある日突然大富豪になっちゃって、迸る正義感のままにチャンチャンバラバラチャンバラバラ。

 

作者の新谷かおるは少女漫画風タッチと社会漫画風ストーリーを上手く織り交ぜた作風が特徴。

本作でもそれが発揮され、ゴルゴ13ばりに当時の社会潮流が紹介されたと思えば、かたやキラキラお目目のお嬢さんがドロドロ人情劇をバッサリ、である。

 

しかしその作風こそが本作最大の難点でもある。

主人公クレオとその仲間たちが、あまりに聖人的すぎるのだ。

俗と欲で形成された経済世界の中で、主人公たちだけが愛と友情のもとに行動する。

よく言えば強調されており、悪く言えば浮いている。

「スラム街で育った処女の美少女」という設定がそもそも世間離れしていると言えないだろうか?

欲の暗闇を背に、彼女たちだけに光が差している。

まさにバロックの時代の聖画のように。

 

ちょっと前にTwitterで出回った話を思い出す。

二次元美少女は3つの側面で構成されるという。

曰く、「太母」「処女」「娼婦」であると(ちょっと違うかも)。

その考え方で行くと、クレオは典型的な二次元美少女である。

他者に愛を説くオカンでありながら、少女趣味のうら若き乙女であり、事あるごとに露出する娼婦でもある。

一種の理想像であるということ。

それは、イコンとして祀られるための一つの条件でもある。

 

クレオアメリカ人であるということは大きな象徴的意味を持つ。

かつてチャップリンは資本主義に轢き潰される人間を描いた。

それに対し日本人は資本主義をサーフィンする植木等を描き出した。

しかし結局のところ、日本人には「資本主義を支配し、謳歌する日本人」は描き出せなかったのではあるまいか。

アメリカの大富豪の美少女」という遠い世界の住人としてしか、ビジネスも若さも愛も謳歌する、資本主義世界のイコンは描けなかったのではないだろうか。

 

本作の発表は1986-1991年。

まさにバブルとともに始まり、バブルとともに終わった作品である。

人間の欲望がどこまでも肯定されたあの時代に、人々は愛と友情のクレオパトラをイコンとして崇めた。

そして欲望の泡が弾けると同時に、イコンを捨てた。

それを「現実に立ち向かえるようになった」と見るのは、感傷に過ぎるだろうか?