ウェルベックは村上春樹に似ているとよく言われるが、個人的には太宰治に似ていると思う。
ウェルベックも太宰も、ともにキャッチ―なフレーズを作るのが非常にうまい。
太宰のコピーライターとしての実力は『女生徒』を読めばわかるし、ウェルベックのうまさはウェルベックBOTを見るといい。
それと性だ。セックスシーンばかり取り上げられるくせに、春樹にとって女は大きな意味を持っていない。太宰にとって女はまさに一大事だ。ウェルベックにとっても一大事だ……より正確に言えば、ウェルベックにとって一大事なのは、女ではなくセックスだが。
『闘争領域の拡大』はウェルベック初の小説だ。その前は評伝や詩を書いていたウェルベックが、始めた余に問うた小説。意図をはっきり伝えるタイプの媒体から動いてきただけに、『闘争領域の拡大』はかなり直接的に書かれている。タイトルの意味するところも、筆者が伝えたい部分も、文中に非常に直接的に示されている。
それを面白くないととるかどうかは好みの問題だろう。
冒頭に述べた通り、自分にとってのウェルベックはストーリーの作家ではない。いや社会派作家としてのウェルベックを否定するわけではないが、いかんせん日本人なのでいまいちニュアンスを飲み込めないのだ。
自分にとってのウェルベックはアフォリズムの、短文の作家だ。ゆえに本作を評価する理由も、その短文にある。
経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。
ウェルベックの主人公は常に生きづらさを抱えている。
彼らは職場で人間関係をうまく築けず、常に不健康で、そのくせ金に困ることは全くない(最後のところは村上春樹に似ている)。
そんな彼らが一人称でつづるのは、やはり常に生きづらさの叫びだ。
身勝手で、レイシストで、どうしようもなくありふれた彼らの生きづらさは、彼らのあまりにも個人的な思いから発しているからこそ、生きづらい人間の心を狙い撃ちにする。
君はいつまでも青春時代の恋愛を知らない、いってみれば孤児だ。君の傷は今でさえ痛い。痛みはどんどんひどくなる。容赦のない、耐え難い苦しみがついには君の心を一杯にする。君には救済も、解放もない。そういうことさ。
普通の小説なら主人公は自殺するのだろう。生きたくない、消えてしまいたいと心から叫ぶものは、劇的な世界では自殺するのがベタな展開だ。
しかし、ウェルベックの主人公は死なない。別に生きたいからではなく、ただ死なない。それはちょうど、生きづらさを抱えながらなお死なず、この本を開いた私たちと同じだ。
なぜ死なないのか、と問われるとウェルベックの主人公たちは、そして私たちはこう答えるだろう。
「生きたくはないが死にたいわけではない」のだと。
ウェルベックは短文の作家だ。
そしてウェルベックは、「それでも生きねばならない」人間だ。
本作の最終ページは、我々が人生に倦んでいるほどよく響くだろう。
それでも踏破しなくてはならない、あなたに捧ぐ。
ときどき路肩に自転車を停め、煙草を吸い、ほんの少し泣き、再び出発する。死にたいなあと思う。でも「踏破すべき道があり、踏破しなくてはならない」のだ。
Flip the Next Coin...
『女生徒』:名文製造機Mr.太宰の本領発揮。
『スプートニクの恋人』:特になにも製造しない男製造機Mr.春樹の本領発揮。