リチャード・ポワイエによる『重力の虹』最初期のレビューを翻訳してみる ⑤

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この本に焦ってしまう読者は、ほとんどの場合、文学的な素養が足りないというよりも、むしろあまりにも文学的過ぎて排他的になっているのだろう。そういう人物は、声を聞かずにデザインを凝視したり、グロテスクを笑うべき時に登場人物に疑問を感じたり、意味を求めて体験を逃すことになるだろう。何よりも、最も意味ある形で組み立てられていることが多い小説世界を、文学とは異なる手法(科学)や文学より劣るとみられがちな方法(映画や漫画)のような方法で表現した小説家に、彼らは不快感を覚えることになるだろう。このような独善的な文学観で『重力の虹』を楽しむことはできないだろうし、あえて言わせてもらえば、時代を理解することもできはしないだろう。

 

もし文学が上記の方法のいずれかよりも優れているとするならば、それを証明するには『重力の虹』のような文体の広い本が必要だ。

この本が何を目指しているのかを知るためには文学以外のジャンル、あえて言えば、人生が人生自身を表現してきた形も知らなければならない。この形には科学やポップカルチャーだけでなく、普段は誰にも気にも留められないようなもの、失われたもの、”framed”されていないもの、デザインされていないものが発信するメッセージも含まれている。彼らの存在の兆候は、高速道路沿いのゴミ、車のトランクのゴミ、官僚の引き出しの中のものの中に見出される。この廃棄されたものたちを記録していくという点で、ピンチョンは『重力の虹』でも『競売ナンバー49の叫び』でも、ドライサー以降最も痛烈で悲痛なリアリストである。

 

これは、ひどく取り憑かれた本だ。この本は、ニューヨークや他のどこかの文学界から完全に孤立した男によって書かれている。この孤立こそが、フィリップ・ロスのような作家が陥る限界である、文学的な様式や作法についての無粋な自己陶酔から彼を解放したものである――”The Breast”よりも20倍優れているし、ソウル・ベローの”Mr. Sammler’s Planet”より少なくとも10倍は優れている。

ピンチョンは現代の生活のあらゆる側面に極めて敏感であり、あらゆる形の視覚・聴覚を感受し、最もありふれた、最も陳腐な物事についても分け隔てなく受け入れている。

「私は自分の多様性よりも優れたものに抵抗する」というホイットマンの言葉は、ピンチョンにも言えることだし、彼の本をロケットなどの現代的なものすべてを凝縮したものにしている無尽蔵で弾性的な合成の力にも言えることだ。しかしピンチョンは彼の時代が抱える統合失調症的なパラノイアが現代だけのものだとか、化物じみたテクノロジーによるものだと叫ぶにはあまりに歴史を知りすぎている。

スロースロップの家系は1630年の偉大なピューリタン船団の旗艦であるアルベラ号に乗っていた乗組員の一人である植民者ウィリアム・スロースロップに辿ることができ、また、「選ばれしもの」と「打ち棄てられたもの」、つまり、見捨てられた者、救いに選ばれなかった者との関係について、ほぼ異端的な本を書いたウィリアム・スロースロップにも辿ることができる。ピュリタニズムは、選民の兆候を探し、残りの人類とその証拠を目に見えないものとし、打ち棄ててしまうように私たちを条件付けたパラノイアの初期のバージョンとして描写されている。したがって本書は、グロテスクな妄想、すなわち、命の不平等と天の印の不平等というファウスト的な幻想のために犠牲にされた人間性についての、深遠な(そして深遠に笑える)歴史についての瞑想である。