京都国立博物館_茶の湯展_感想

 

 

へうげものがマイブームなので見に行った。

今まで全然わからなかった陶芸がちょっとわかった気になったので書いてみる。

※私は茶の湯に詳しくありません。陶芸にも詳しくありません。

 

 

・唐物肩衝茶入 銘 残月

 足利義満の所持した茶入。

 一般的な茶道の道具のイメージはぼんやりあったのだが、これは衝撃だった。

 この茶器片手に収まるくらい小さいのだが、存在感が半端じゃない。

 頭では茶器が小さいことが理解できるのだが、なんというか茶器の周りの空間に茶器の存在感が漏れている感じだった。

 言ってみれば、実物以上に重く感じる。そういう存在感があった。

 

・唐物肩衝茶入 銘 新田

 こちらも同じく肩衝茶入。天下三肩衝というらしい。

 こちらはさっきの残月より少し大きいのだが、存在感はやっぱりサイズ以上。

 何というか引き付けられるというか、目が離せなくなるのだ。

 茶入れの側面の模様に吸い込まれるような感覚がある。

 この存在感が良い茶器の証なのかと感じた次第。

 

・黒楽茶碗 銘 ムキ栗

 「見るものを引き付ける茶器」=「よい茶器」。

 この方程式を基に考えるならば、茶碗を黒に塗るのは当然の帰結である。

 黒はすべての光を引き付け、吸収する色。ゆえに黒の茶碗が人を引き付けるのも頷けるのだ。

 へうげもの読者ならご存じだと思うが、黒楽茶碗は千利休がデザインした茶碗である。

 利休の待庵も再現展示されているので是非。

 

曜変天目

 さてここで少し趣向を変えよう。

 曜変天目は焼き物の中でも有名どころというか、よく取り上げられるというか、とっつきやすいというか、そういう感じである。

 言うまでもなくその特徴は銀河にも例えられる内側の模様にある。

 曜変天目も黒楽茶碗も黒を基調とした茶碗だが、その趣は大きく異なるように感じた。

 黒楽茶碗が見るものを引き付ける茶碗であるのに対し、曜変天目はそうではないのだ。

 銀河は遠くから眺めてみるものであるのと同じように、曜変天目もまた見るものを引き離す。これは今までの茶碗とは違う美学である。

 

・黒織部菊文茶碗

 黒楽茶碗と曜変天目を比べると、黒楽茶碗(やそれに連なる今までの茶器)の弱点がよくわかる。

 「見るものを引き付ける茶器」=「よい茶器」という方程式は間違っていないが、引き付けられると人は疲れるのだ。

 最初のほうでも書いたが、見るものを引き付ける茶器は「重い」。

 そして「重い」ものを持つと人は疲れる。

 黒楽茶碗は見るものを引き付けるが、じっと見ていると疲れるのだ。

 利休の後を継いだ織部の茶碗はこの弱点を解消している。

 師の黒を受け継ぎつつも、黒織部菊文茶碗は軽やかさを含んでいる。白地部分と絵付けのおかげだ。

 この見方はあくまで『へうげもの』史観でしかないが、ある程度正しいのかなと思っている。

 

 

まあ、茶の湯の入れ物って黒系統以外もあるから上の流れだけではないわけだけども。

ともかく感想として書いてみただけ。ご笑納くだされば。