『白鯨』 泳げ悪の真珠

 

白鯨 (上) (角川文庫)

白鯨 (上) (角川文庫)

 

 

白鯨 (下) (角川文庫)

白鯨 (下) (角川文庫)

 

 

重力の虹』に続いてパラノイア文学のご紹介。

みんな知ってるけど読んだことはないメルヴィルの『白鯨』である。

「白いクジラと戦う話」っていうのはみんな知っているところだが、読んだことがないのは大きな理由がある。

中盤に鯨についての学問的な記述が大量に入っているのだ。

仇敵の白い抹香鯨、モービィ・ディックが出てくるのは終盤100ページくらいであり、そこまでは延々捕鯨とクジラの知識を詰め込むゾーン。

この中盤が大きなハードルになっており、実際グレゴリー・ペックの映画版では(尺の都合もあって)見事に中盤がすっ飛ばされた。

中には「中盤の退屈さは捕鯨の退屈さを表しているんだ」なんてのたまう人までいる。

しかし私は断固として言いたい。

この作品、中盤こそが屋台骨なのだと。

 

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グレゴリー・ペックの『白鯨』。こちらも秀作。

 

さて、中盤のことを語る前に全体、および中盤以外の部分について触れておこう。

序盤を出港まで、終盤をレイチェル号登場あたりからと考える。

序盤と終盤だけを繋げてみると(つまり出向直後にモービィ・ディックと出会ったとすると)、そのストーリーはさながらクトゥルフ神話のエピソードに近い。

つまり人智を超えた存在=白鯨と、それを追う探索者=エイハブという構図だ。

 

作品を通して、白鯨は人智を超えた存在として描かれる。

底知れない悪意と老獪な機智を持った、不気味なほど白い鯨。

人間のスケールを超えた長い間生き続けるそいつは、不意に現れては捕鯨船を沈めていく。

白鯨は海の脅威の象徴である。

この地球上の7割を覆う海は、人間にとってあまりに巨大な、あまりに謎の多い存在だ。

『白鯨』における海がどんなものかは、ピップ発狂のエピソードを見ればわかるだろう。水面に一人たたずむ人間の心を、海は容易に引きずり込む。人のたどり着けぬ、暗く不可思議な深海へと。

モービィ・ディックは海の象徴。

コズミックホラーで描かれる邪悪な存在、悪神そのものだ。

 

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底知れぬ、先も見えぬ海は人間の根源的な恐怖を呼び覚ます。もっとも、この写真はたぶん池だと思うが……

 

対するわれらがエイハブ船長、こちらもただの探索者ではない。

邪悪なものと偶然出会ってしまった、なんてそこらの探索者と一緒にしてはいけない。

エイハブは一度白鯨と戦い、敗れ、にもかかわらず白鯨を追いかけるのだ。

クトゥルフTRPGに詳しい人はご存じだろうが、探索者にはSAN値(正気度)が用意されており、これがなくなるとその探索者は行方不明になる(ロストする)。

上記ピップのエピソードがわかりやすいだろう。

一度やられた探索者が銛を持ってわざわざクトゥルフを探しに行くなんて、正気の沙汰ではない。

しかも、何も知らない船員たちを抱き込んでである。

作中で繰り返し描かれるように、エイハブは正気ではない。少なくとも合理的ではない。

人智を超えた邪悪な存在に、犠牲を出しながらも突き進む憎悪の狂人!

 

「おお、エイハブ」とスターバックが叫んだ。「三日目だが、今思いとどまっても手遅れではない。見なさい! モービィ・ディックはあなたを探してはいません。あなた、あなたこそ、狂気のように彼を探しているのだ!」

 

これだけでも実にエキサイティングな構図だが、メルヴィルの筆はさらにその上を行く。

優しい(?)人食い人種クィークェグ、エイハブに唯一逆らう航海士スターバック、エイハブの(対等ではないが)唯一の現身パーシーをはじめとして、本作の登場人物は非常に魅力的だ。どいつもこいつも癖が強すぎるのに、全体としては奇妙なリアリティを保っている。

それに加えて文章がおそろしくカッコいい。当時の政治演説に由来すると言われる熱いセリフ回しは、男の子ならだれでも盛り上がることだろう。

 

「我汝に、神の名においてにあらず、悪魔の名において洗礼を施す!」

邪心ある鉄が焼き付くように洗礼の血を吸った後、エイハブがうわごとのようにわめいた。

 

序盤と終盤だけでも本作が魅力的なことに疑いはない。

それはグレゴリー・ペックの映画版が証明してくれたことだ。

しかし、最初にも言ったように、本作はやはり中盤が重要だと思う。

なぜかといえばそれは、モービィ・ディックが海の脅威であると同時に、一匹の鯨であるからだ。

 

もう一度クトゥルフ神話を例にとろう。

クトゥルフ神話の重層的な世界観は多くのファンが認めるところだろう。

ラヴクラフトは(あるいはダーレスは)その世界観を無数の掌編の積み重ねによって作った。

有名な『インスマスの影』のような作品は実際のところ小説としてはかなり短めであり、それらの中で描かれたのはクトゥルフ神話の世界観のごく一部に過ぎない。

複数の小説(あるいは設定)が同じ世界観に基づいて描かれることにより重厚な神話世界を描写したのがクトゥルフ神話のやり方である。

それに対し、メルヴィルは『白鯨』一作で重厚な世界観を描き切ろうとした。

その結果生まれたのが、鯨に関する短い短文を無数につなぎ合わせたあの中盤だったのである。

 

メルヴィルは『白鯨』を寓話として描くことを好まなかったのだろう。

もし中盤がなければ、モービィ・ディックは「悪神のような存在」ではなく「悪神そのもの」ととられかねない。それでは寓話になってしまう。

そうではないのだ。メルヴィルは鯨という種の永続性については書いているものの、モービィ・ディックという個体の永続性については書いていない。

モービィ・ディックは底知れぬ海の象徴ではあるが、同時にあくまで一匹の鯨だ。

質量をもたない象徴ではなく、重みと風と衝撃を持った一匹の白鯨なのである。

 

それ故、いろいろの事情にかかわらず、鯨が個体としていかに死滅するものであっても、種族としては不死であると、俺たちは考えるのだ。彼は所大陸が水を横断する前に海を横断して泳いだ。彼はかつて、チュイルリー宮殿、ウィンザー城、クレムリン宮殿の現在の所在地の上を泳いだ。ノアの洪水の時には、彼はノアの方舟を軽蔑した。そしてもし世界が、その鼠を絶滅するため、ネザーランドのように、ふたたび洪水に覆われるとしても、不滅の鯨はなお生き残り、赤道の洪水のいちばん高い波頭に立ち上って、空に向かって泡立つ反抗の汐を噴き上げることだろう。

 

さて余談になるが、中盤のことに触れるならスタッブのことに触れないわけにはいくまい。

われわれが曲がりなりにも中盤を楽しめるのは、何をおいてもスタッブのおかげなのだ。

先ほど分けた序盤・中盤・終盤の中で、それぞれの立役者は以下になるだろう。

序盤はクィークエグとイシュメール。終盤はエイハブ(およびその落とし子パーシー)とスターバック。

そして中盤は、スタッブとその(文字通りの)落とし子ピップである。

実際、スタッブはいいキャラである。常にパイプをくわえ、軽口と悪口を吐き出しながら、しかしプロとしての手腕をいかんなく発揮する。

中盤の鯨取りのほとんどでスタッブが銛を投げており、そういう意味でもスタッブは中盤のガイド役なのだ。

某コーヒーチェーンのせいでスターバックばかり取り上げられるが、あくまでもスターバックはエイハブではなくスタッブの鏡写し。

スタッブはもっと注目されていいように思うのである。

 

 

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スタッブの脳内イメージはなぜかコイツだった。パイプ爺ならぬキセル爺。

 

メルヴィルラヴクラフト、二人の作家が人智を超えた存在を海洋生物として捉えたのは、何かの偶然なのだろうか。

果てしなく広がり、無数の人間を呑み込み続ける暗い海。

その海底を泳ぐ白鯨は、まさに真珠だ。

底知れぬ海の悪意をその身に詰め込んだ、不気味に輝く真珠である。

 

いまは小さな水禽たちが、パクリと口を開いたままの深淵の上を鋭い声で鳴きながら飛び、不機嫌な白波がその険しい側面を打った。

やがてすべてが崩壊すると、海の大いなる屍衣は、五千年の昔に変わらぬうねりをうちつづけた。