『重力の虹』 ナウ、エヴリバディ――

 

 

だがふたりが感じるのは曲線だ、間違いなく。それは放物弧。きっと一度か二度、そのことに気づいたのではなかったか(気づきながらも信じるのは拒絶した)――すべては、つねに、全体として、空に潜む純粋化された形へと収斂していたということを。何の偶発性もない、やりなおしも引きかえしも受け付けない弧の形へ。それなのにふたりとも、その下を動き回るだけなのだ。そのブラック&ホワイトの凶報に確実にやられるべく、弧の下を、それがあたかも虹の弧であるように勘違いして・・・まるでふたりがその虹の子どもたちであるかのように・・・

 

  

 
圧巻である。
圧倒的な情報量とエピソードが、第二次世界大戦の狂乱が、すべてロケットのカーブへと集約されていく。
そのどうしようもなく巨大なパワーを前に、我々はただカズーを口に叫ぶことしかできない、そう、最後に訪れる着弾のその瞬間まで・・・
 
重力の虹』はトマス・ピンチョンの三作目にして、間違いなくピンチョンの代表作である。
戦後文学の中で最も研究された作品としても、アメリカの大学生が読んだふりをする本ベスト1としても名高い。
日本の(文学部の)大学生が読んだふりをする本ベスト1が『ドグラ・マグラ』じゃね?と思っている自分からすると、なんだか感慨深い気持ちになる。
この度マイベスト100、人生で今まで読んできた本ベスト100の中で、『ドグラ・マグラ』と『重力の虹』が同率一位に入賞したことをご報告します。
ドグラ・マグラ(上) (角川文庫)

ドグラ・マグラ(上) (角川文庫)

  • 作者:夢野 久作
  • 発売日: 1976/10/13
  • メディア: 文庫
 

 

重力の虹』はシステムとの抗戦の物語である。
作中で<かれら>と呼ばれるシステムは、いわゆる合目的的なシステムではない。
陰謀論で良く持ち上がるような、原因をたどっていくと一つの点にたどり着けるような単純なシステムではない。
それは無数の粒子が相互に連携し、干渉しあうことによって生じる一つのエコシステムである。
世界のすべての場所にあまねく存在し、音も形もなく我々をとらえ続けるシステム。
例えばロケットの受ける空気抵抗。
テクノロジーそのもの。
物理法則。
社会道徳。
見えざる手。
宿命。
重力。
つまりだ、この<戦争>は政治とは無関係。政治は完全にお芝居、民衆の注意をそちらに向けておいておくためのものであり・・・その陰で、テクノロジーの要請こそが、専横的な力を揮い、事態を動かしていた・・・人間と技術が一体となって、戦争というエネルギー・バースとを必要とする何者かに変化したのだ。表向きは「カネがどうした、わが国〔どの国名も挿入可能〕の生存が掛かってるんだぞ」と喚きたてているものの、その意味は、おそらくこうだ――もうじき夜明け。わたしは夜の血が必要だ。財源、財源、ああ、もっと吸わないと。
 
作中、無数の人物がシステムの餌食となる。
ペクラーのエピソードに登場する、ロケット組み立ての強制収容所
カッツェ・ボルヘジアス。ヘレロ族の虐殺。
古くはドードー鳥だってそうだ。
システムは巨大な歯車のイメージ通り、我々をその歯の間でかみ砕く。
しかしそのシステムすら完全無欠ではない。
ポアソン分布の3シグマの果て、確率論のはるか彼方から、奇跡とも呼べる叫びが必ず飛んでくる。

 あらゆる点にチェックを入れて、万事順調、突発事故など起こりえない・・・というときにも、きっと何かが起こるという法則。プディング准将の『ヨーロッパ政治において起こりうること』の一九三一年の版では、あらゆる可能性の順列組み合わせを網羅したはずなのに、ヒトラーの登場に関してはまったくふれられなかった。いくら遺伝の法則を確立したといっても、突然変異は生じるのだ。

 

これは世界に対する賛歌では全くない。
Dreams come trueとか人間賛歌は勇気の賛歌とか、そういう話では断じてない。
ロケットの発射側でも着弾側でも、無数の人間が打ち捨てられている。
ロケット自身も重力に引かれ、粉々に砕け散る。
邦訳700ページにものぼる物語の中で、ロケットは常に理不尽な死の象徴であり続ける。

システムを超越した例外が常に飛び上がる、というのは、ゲーデル不完全性定理に表されるような一つの事実に過ぎない。

確率がゼロなんてものはないとか、実験は必ず失敗するとか、そういう世界の事実を描写しているに他ならない。

泣く力も弱々しく、咳きこんでいる敗残者。・・・ペクラーの空虚、彼の迷宮の裏側に常にこれがあったのだ。ペクラーが生き、紙の上に図や印を描いている間に、すぐ外の闇で、この不可視の王国が・・・ずっと存続しつづけたのだ。・・・ペクラーは吐いた。泣きもした。壁は溶け出さなかった――牢の壁が涙で溶けたためしはない。

 

システムが歯車を軋らせるとき、必ず打ち捨てられたものたちが現れる。

ロケットの虹から外れようとするベクトル。

山なりの連続性ではなく、偶発性を、カスプの頂点をこそ求めるものたち。

どれだけ破壊され、四散しようとも、スロースロップは彼らとともにある。

消滅するものなんて何一つない、これもまた世界の事実なのだ。 

"自然は消滅を知らず、ただ変換を続けるのみ。過去・現在を通じて科学が私に教えてくれるすべてのことは、霊的な生が死後も継続するという考えを強めてくれるばかりである"

――ヴェルナー・フォン・ブラウン

 

重力の虹』は残酷な物語である。

スロースロップもブリツェロも、ビアンカもポインツマンもエンツィアンも、誰一人救われることはない。

それでもピンチョンの筆は、どこか爽やかな春の風を運んでくれる。

歌いませんか、弾むボールに合わせてどうぞ――

汝の時の砂尽きるとも

砂時計を回す御手あり

数多の塔を潰せし光が

最後の一人を棄て落とすまで……

荒れ果つる地の道にて

破壊の騎手が眠むまで

その御顔、凡ての山の肌にあり

その御魂、凡ての石の中にあり

 

ナウ、エヴリバディ――