『Ergo Proxy』 加えよ混ぜよ掘れよ

 

Ergo Proxy Blu-ray BOX (スペシャルプライス版)
 

 

Ergo Proxy』を見た。個人的には中の下くらいの印象。

「外国人に人気のアニメ」とか「大人のアニメ」とかで名前が挙がっていたのを覚えている。

哲学的な、とか独創的な、とか難解な、とかいう枕詞が付いていた気もする。

個人的にはこれらのレビューにいまいち賛同できない。

Ergo Proxy』は怪作というよりは、むしろよくあるパーツをうまくつなぎ合わせた快作の方に近いイメージだ。

 

Ergo Proxy』に似た作品は非常に多い。

荒廃した大地・男と女と子供・ディストピアとしての管理社会。

クイズ回とかディズニー回とかそういうあからさまなものは置いておくにしても、オマージュの非常に多い作品と言える。

その主なパーツはたぶん以下の3つだろう。

すなわち、『風の谷のナウシカ』(漫画版)・『COWBOY BEBOP』・『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』だ。

 

風の谷のナウシカ』の影響はその背景設定にある。

荒廃した大地・旧人類と新人類の関係など、『Ergo Proxy』における「世界の秘密」はナウシカのそれとかなり似通っている。

TRIGUN』あたりともかなり似ている(ヴィンセントとヴァッシュの造形とかそっくり)が、そもそも90年代においてポストアポカリプス系が流行っていたというのは無視できない(というか『TRIGUN』にせよ『血界戦線』にせよ、内藤作品はその世代の流行をかなりの部分体現している)。

Ergo Proxy』は世に無数に存在するナウシカフォロワーの一人と言えるだろう。

 

 

パンで見た時の設定が 『風の谷のナウシカ』なら、ズームで見た時の設定は『COWBOY BEBOP』だ。

固定メンバーが疑似家族を形成しながら街を巡り、そこで騒動に巻き込まれる。

いわゆるビバップスタイルのストーリー展開が『Ergo Proxy』後半の主軸となる。

子供でロボット、かつ悩み多きヴィンセントだけでは停滞しがちなストーリーの推進役であるピノの存在はビバップエドに似ていなくもない。

ついでにいうと『THE ビッグオー』のドロシーにも似ている。というかビッグオーと『Ergo Proxy』が似ている。これもまた影響の一つなのかもしれない(念のため書いておくが、『THE ビッグオー』の方が先)。

最終話が過去を清算するストーリーであることも『COWBOY BEBOP』に似ている。

 

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最後に、描写の仕方は『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を真似ている……が、こちらはあまり追随できていない印象。

膨大なハイテキストによって世界のすべてを描き切ってしまう押井守のスタンスは踏襲しているが、『Ergo Proxy』はハイテキストをうまく扱いきれていないという印象。

例えば「おじいさま」の四体の石像は哲学者の名前なのだが、彼らの言動がその哲学者自体のなにがしと関係しているかといわれると、そうでもない。あくまで名前をとってきただけという印象だ。

レーゾンデートルにしても、もともとの「存在意義」という訳をそのまま当てはめすぎているというか、「生きる意味」程度に翻訳してしまっている点はいただけない。

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長々と書いてきたが、『Ergo Proxy』があまり好きになれなかった理由は最後にある。

様々な作品の要素を組み合わせ、オマージュして作られた『Ergo Proxy』。

当然それは悪いことではない。むしろ称賛されるべきことだろう。

しかし『Ergo Proxy』はその先を描くことができていない。

日本アニメの流れに疎い外国人にどう映るかはわからないが、日本人が見ると『Ergo Proxy』は守破離で言うところの守。

こちらとしてはその先、先人から受け継いだものをどのように発展させるかに興味があるわけで、当然守だけではあまり面白くないという印象だった。

 

 

 

 

 

わからなかった人のための『重力の虹』解説

※筆者はピンチョンの専門家ではありません

※筆者は佐藤訳の日本語版しか読んでいません

※筆者はまだ1回しか読んでないので所々うろ覚えです

※完全に持論です

※100%ネタバレです

 

  

 

重力の虹が難解だとか支離滅裂だとか言う声が多いので書いた。

個人的にも完全に飲み込めているわけではない(飲み込めるもんでもない)ので、異論質問バンバンコメントください。

 

本作のテーマをまとめると?

「理性中心の世界では常にそれを超えようとするものが現れる。彼らは無残にもバラバラに打ち捨てられてしまうが、しかし消滅することはなく、やがて現れる次の挑戦者たちの糧となる」

まあこれだけでは説明になってないだろうからこの記事最後まで読んでくださいお願いします。

 

結局あらすじは何なの?

世界中のすべてがロケットの一生と同じ道筋をたどる物語。

具体的には、以下8つの工程に分かれる。

①原料や燃料の採掘・精製
②組み立てながら輸送・調整
③発射
④上昇
⑤燃焼終結(ブレンシュルッス)
⑥自由落下
⑦着弾
⑧回収をはじめとする着弾を受けた反響 → ①に戻る

本作には無数のエピソードが登場するが、第四部に入るまでのすべてのエピソードがこの一連の工程と同じ流れをたどる。

加えて、本作の流れ自体がこの①-⑧の流れをたどっている。

世界のすべてが①~⑧の放物線、重力によるロケットの虹に集約される物語なのだ。

 

具体的に物語のどの部分がどの工程にあたるの?/スロースロップは最終的にどうなったの?

スロースロップの物語を上の工程に当てはめるとこの2つの問いの答えになると思う。

①原料や燃料の採掘・精製:第一部~カッツェとの別れ+ラスロ・ヤンフやライル・ブランド周り
②組み立てながら輸送・調整:カッツェとの別れ~グレタとの出会い
③発射:グレタとの出会い
④上昇:グレタとの出会い~ビアンカ喪失
⑤燃焼終結(ブレンシュルッス):ビアンカ喪失(ビアンカとのセックスシーン)
⑥自由落下:ビアンカ喪失~第三部ラスト
⑦着弾:スロースロップがクロスロードになるシーン(第四部第1エピソード)
⑧回収をはじめとする着弾を受けた反響:第四部第1エピソード~ラスト

 

順に見えていこう。

①原料や燃料の採掘・精製

 第一部~カッツェとの別れ+スロースロップの生い立ち。

 第一部・第二部のほとんどがこの部分にあてられていることとなる。

 生い立ち部分がスロースロップの原料、というのはまあ納得いただけると思う。

 ホワイト・ヴィジテーションなどスロースロップを取りまく外部環境は、最終的にはスロースロップの発射の一因となったという側面から、スロースロップというロケットの部品と言えるのではないかと考えている。

 後のグレタにカッツェと似た面影を感じていることから、カッツェとの逢瀬はいわば誘導装置にあたるのだろうか?

②組み立てながら輸送・調整

 ロケット組み立て地下壕のエピソードや第四部のエンツィアンのエピソードでわかる通り、ロケットの組み立ては輸送しながら行われる。

 スロースロップの物語の中でこの部分に該当するのはカッツェとの別れ~グレタとの出会い。

 スロースロップのロケット勉強はカッツェとの別れの前後で始まっている。

 この後のスロースロップの動きを考えれば、ロケットの知識を勉強したこのシーンが組み立てシーンの一部にあたるといえそうだ。

 実質的な組み立てはスロースロップがロケットマンになったタイミング(ゾイレ・ブマーとの出会い)で終了したのであろう。その後~グレタの出会いまでは言うなれば発射方向の調整、あるいは発射タイミングまでの待機時間である。

 ①②の工程を(少なくとも途中まで)仕切っている黒幕はポインツマンである。

 この部分が輸送シーンにあたることはポインツマンという名前からも想像できる。

③発射

 グレタとの出会いのシーン。

 スロースロップの自我の分散が始まるのはグレタとの共同生活が始まってからである。

 この自我の分散、言い換えれば魂の分散は、ロケットで言えば炎の噴射にあたると思っている。噴射=自分の内側の燃料を吐き出し、分散させているということなので。

 グレタとの出会いが発射地点だと考えているのは、スロースロップが目指した燃焼終結点(ロケットの放物線で言うと最も高い頂点のところ)がビアンカだと考えているからでもある。

 ビアンカとグレタは親子であるがゆえに、同一ではないが似たパーソナリティを持っている。

④上昇

 グレタとの出会い~ビアンカの死。

 ビアンカとのセックスシーンが③発射または④上昇にあたることはほぼ間違いない。

 だって射出とか言ってるもんね。

 ビアンカとのセックスを③発射にしていないのは上記自我の分散のタイミングが理由。

 ビアンカとのセックスのタイミングがスロースロップというロケットの最高速度だったということは言えそうだ。それが発射タイミングなのか、上昇の途中なのかはロケットの速度変化に詳しくないのでよくわからないが。

⑤燃焼終結(ブレンシュルッス)

 ビアンカとのセックス。というより、ビアンカ喪失である。

 

 スロースロップにとってビアンカは放物線の頂点、ゴッドフリート発射時のブリツェロの言葉を借りれば「光の突端」にあたる。このあたりはビアンカとのセックスシーンの描写からそう思った、という感じ。

 燃焼終結点にてスロースロップとビアンカは一瞬重なるのだが、しかしスロースロップはビアンカを失う(セックスシーン終盤の描写より)。

 そのあとは自由落下に入ってしまうため、スロースロップはビアンカを失い続けることになる。

⑥自由落下

 ビアンカ喪失~第三部のラスト。

 ビアンカの死がここに挟まっていることは注目に値する……のだが、ここに対して明確な解釈が思いついていない。もしかしたらビアンカの死が⑤燃焼終結なのかも。

 なお、ペーネミュンデのエピソードでもスロースロップは自我崩壊を感じているのだが、ロケットも自由落下中に部品が取れたりするよな、と思っているのであまり矛盾は感じていない。最後のスロースロップに近づいている、という感じ?

⑦着弾

 着弾したのは第四部第1エピソード。

 クロスロードという書き方をしているのでわかりにくいが、取っているポーズは十字架、つまり×マーク。これはペクラーのエピソードで出てきたミサイルの着弾地点の模様と同じ。

 着弾するとミサイルは粉々に飛び散る。それと同様、スロースロップもまたバラバラになって飛び散ったということになる(この記載があるのは第四部の半ばだが)。

 具体的な状況はビッグ・ポーディーンのドイツでのエピソードを参照。過去と未来を認識できず、現在(ロケットで言うところのΔt)だけを認識できる状態になっている。

⑧回収をはじめとする着弾を受けた反響 → ①に戻る

 第四部全体。

 詳しくは後で説明するが、カウンターフォース自体がスロースロップがバラバラになったことを受けた影響で物語に登場してくる。

 なお、着弾したロケットを回収って何よ?という方は第一部のスロースロップの仕事およびペーネミュンデのロケット試験を参照されたし。第四部のエンツィアンのエピソード(ロケットの放物線は、実は大きな円の可視的な一部分という描写のところ)でも可。

 

ただし、スロースロップというロケットは必ずしもキレイな放物線を飛んでいるわけではない。

そもそもスロースロップの発射をたくらんだものから見ると、スロースロップは失敗したロケットである(第三部ラストエピソード)。

制御系のうまく機能しないロケットの向きがブレ続けるように、スロースロップの物語も寄り道をはさむ。

また、物語自体がスロースロップから寄り道することもある(ペクラーのエピソードなど)。

 

<かれら>って何?/カウンターフォースって何?

 <かれら> = 制御システム、およびそれを構築する技術、およびそれらの前提としてある「制御」という概念そのもの。

 

 本文中で<かれら>を名指しで呼んだのはカッツェ、グレタ、グレタの影響を受けたスロースロップ、第四部のロジャーの四名である。

 上記のように、作中で<かれら>を指す際には段階の違う3つの意味が包含されている。

 分けて説明しよう。

 

 ・制御システム

  この場合の「システム」はいわゆる合目的的なシステムやピラミッド式のシステムではない。

  この場合のシステムは多数の粒子が有機的につながりあうことによって構成されタイプのものであり、言葉的にはむしろ制御「系」といった方が近い。

  ロケットにおける制御系は、外乱要素とそれに反応する電気回路からなる。

  外乱要素とはロケットの理想的なカーブを妨げる要素である。具体的には空気抵抗、それになにより、重力である。

  電気回路の方は本文中に、「ロケットの方向を検知して間違った方向に向かうと電気が流れて修正する」というような内容が書いてあった(と記憶している)。

  現実世界のほうで言えば、IGファルベンやシェル石油フリーメーソンなどいわゆるテンプレ陰謀論的な秘密組織がこれに当たる。第四部冒頭のロジャーが指摘していた<かれら>といえよう。

  ただし、カウンターフォースはこの秘密組織に対抗して作られた団体ではない。

  <かれら>という名前のせいで具体的な人間が属している団体みたいに思われるが、実のところこれらに属している人間が利益を貪っているかといわれるとそうではない(ポインツマンのエピソード全体を参照)。

  作中での扱いで言えば、これら秘密組織を考えるのは新米パラノイアの悪い癖であって、正直この秘密組織は大した敵ではない。

  新米パラノイアのロジャーはやれジェシカが<かれら>の使いだ秘密組織に属しているんだなどと言っているが、その発言はプレンティスに軽くあしらわれている。

 むしろその背後にある技術、そして技術の背後にある概念こそがカウンターフォースが抗する相手と言えるわけだ。

 

 ・制御システムを構築する技術

  カッツェや(確か)エンツィアンが指摘した<かれら>。

  「WWⅡは国同士の争いというよりは技術の要請で起こった」的な内容が(場所忘れたけど確か終盤に)あったはず。

  作中ではプラスチック技術やロケット技術などが該当する。

  技術かどうかは微妙だが最もイメージに近しいのはポアソン分布かもしれない。

  発生するすべての出来事を正規分布に押し込め、制御する手法。

  滑らかなカーブを描こうとするこれらの技術に対し、カウンターフォース側で登場するのはカスプを求めるテクニック。

  タナツの出会った雷浴びたいマンとか、あとドラッグによるトリップがまさしくそれにあたるだろう。

 

 ・技術の背後にある制御という思想そのもの

  技術の前提としてある「制御」という思想そのもの。

  これが<かれら>の本体であり、カウンターフォースが抗する相手である。

  この場合の「制御」は「管理」とも言い換えてもよいし、「合理性」「弁証法」と言い換えてもよい。科学の発展を支えてきたいわゆる近代西洋哲学そのものである。

  すでに制御システムの段で述べたように、このシステムはいわゆるトップダウン式のものではない。むしろ複数の粒子(あるいは人間)が有機的に繋がることで生じるシステムである。そういう意味では「常識」や「規範」、あるいは「重力」と言ってもよいだろう。

  ジェシカが<かれら>に与してしまったなどとロジャーは言っているが、何のことはない。ジェシカは合理的に、常識的に判断している、というだけなのである。 

 

  ロケットの制御系が望ましいベクトル以外を「打ち捨てる」技術であるように、「制御」という概念からは「打ち捨てられたもの(プレテリット)」が必ず生じる。

  スロースロップ、そしてカウンターフォースはこの「打ち捨てられたもの」のそばに寄り添うものたちである。

  (確か)ポインツマンがこぼしていたように、どれだけ制御しようとしてもその制御系をオーバーするものが必ず登場する。ポアソン分布で言う3シグマの彼方、奇跡的な確率で誕生した電球バイロン

  制御系はその恒常性を維持するために、必然的に彼らを打ち捨てる。

  打ち捨てられた者たちはバラバラにまき散らされるが、しかし彼らは完全に消失することはない。

  ロケットはまた組み上げられ、陽はまた昇り、そしてまた撃ち落される。

  最後のその瞬間まで、ずっと……。

 

  ここでオープニングシーンに登場するエピグラフと、ラストシーンに登場するウィリアム・スロースロップの讃美歌をもう一度見てみよう。

"自然は消滅を知らず、ただ変換を続けるのみ。過去・現在を通じて科学が私に教えてくれるすべてのことは、霊的な生が死後も継続するという考えを強めてくれるばかりである"

――ヴェルナー・フォン・ブラウン

 

汝の時の砂尽きるとも

砂時計を回す御手あり

数多の塔を潰せし光が

最後の一人を棄て落とすまで……

荒れ果つる地の道にて

破壊の騎手が眠むまで

その御顔、凡ての山の肌にあり

その御魂、凡ての石の中にあり

 

  最初に記載した「本作のテーマをまとめると?」の意味がわかっていただけただろうか?

 

ここまで書いてきてなんだけどわかりやすくなっちゃったら艶消しな感じもしなくもない。

また質問とか思いついたことあったら追記します。

 

ナウ、エヴリバディ――

 

『重力の虹』 ナウ、エヴリバディ――

 

 

だがふたりが感じるのは曲線だ、間違いなく。それは放物弧。きっと一度か二度、そのことに気づいたのではなかったか(気づきながらも信じるのは拒絶した)――すべては、つねに、全体として、空に潜む純粋化された形へと収斂していたということを。何の偶発性もない、やりなおしも引きかえしも受け付けない弧の形へ。それなのにふたりとも、その下を動き回るだけなのだ。そのブラック&ホワイトの凶報に確実にやられるべく、弧の下を、それがあたかも虹の弧であるように勘違いして・・・まるでふたりがその虹の子どもたちであるかのように・・・

 

  

 
圧巻である。
圧倒的な情報量とエピソードが、第二次世界大戦の狂乱が、すべてロケットのカーブへと集約されていく。
そのどうしようもなく巨大なパワーを前に、我々はただカズーを口に叫ぶことしかできない、そう、最後に訪れる着弾のその瞬間まで・・・
 
重力の虹』はトマス・ピンチョンの三作目にして、間違いなくピンチョンの代表作である。
戦後文学の中で最も研究された作品としても、アメリカの大学生が読んだふりをする本ベスト1としても名高い。
日本の(文学部の)大学生が読んだふりをする本ベスト1が『ドグラ・マグラ』じゃね?と思っている自分からすると、なんだか感慨深い気持ちになる。
この度マイベスト100、人生で今まで読んできた本ベスト100の中で、『ドグラ・マグラ』と『重力の虹』が同率一位に入賞したことをご報告します。
ドグラ・マグラ(上) (角川文庫)

ドグラ・マグラ(上) (角川文庫)

  • 作者:夢野 久作
  • 発売日: 1976/10/13
  • メディア: 文庫
 

 

重力の虹』はシステムとの抗戦の物語である。
作中で<かれら>と呼ばれるシステムは、いわゆる合目的的なシステムではない。
陰謀論で良く持ち上がるような、原因をたどっていくと一つの点にたどり着けるような単純なシステムではない。
それは無数の粒子が相互に連携し、干渉しあうことによって生じる一つのエコシステムである。
世界のすべての場所にあまねく存在し、音も形もなく我々をとらえ続けるシステム。
例えばロケットの受ける空気抵抗。
テクノロジーそのもの。
物理法則。
社会道徳。
見えざる手。
宿命。
重力。
つまりだ、この<戦争>は政治とは無関係。政治は完全にお芝居、民衆の注意をそちらに向けておいておくためのものであり・・・その陰で、テクノロジーの要請こそが、専横的な力を揮い、事態を動かしていた・・・人間と技術が一体となって、戦争というエネルギー・バースとを必要とする何者かに変化したのだ。表向きは「カネがどうした、わが国〔どの国名も挿入可能〕の生存が掛かってるんだぞ」と喚きたてているものの、その意味は、おそらくこうだ――もうじき夜明け。わたしは夜の血が必要だ。財源、財源、ああ、もっと吸わないと。
 
作中、無数の人物がシステムの餌食となる。
ペクラーのエピソードに登場する、ロケット組み立ての強制収容所
カッツェ・ボルヘジアス。ヘレロ族の虐殺。
古くはドードー鳥だってそうだ。
システムは巨大な歯車のイメージ通り、我々をその歯の間でかみ砕く。
しかしそのシステムすら完全無欠ではない。
ポアソン分布の3シグマの果て、確率論のはるか彼方から、奇跡とも呼べる叫びが必ず飛んでくる。

 あらゆる点にチェックを入れて、万事順調、突発事故など起こりえない・・・というときにも、きっと何かが起こるという法則。プディング准将の『ヨーロッパ政治において起こりうること』の一九三一年の版では、あらゆる可能性の順列組み合わせを網羅したはずなのに、ヒトラーの登場に関してはまったくふれられなかった。いくら遺伝の法則を確立したといっても、突然変異は生じるのだ。

 

これは世界に対する賛歌では全くない。
Dreams come trueとか人間賛歌は勇気の賛歌とか、そういう話では断じてない。
ロケットの発射側でも着弾側でも、無数の人間が打ち捨てられている。
ロケット自身も重力に引かれ、粉々に砕け散る。
邦訳700ページにものぼる物語の中で、ロケットは常に理不尽な死の象徴であり続ける。

システムを超越した例外が常に飛び上がる、というのは、ゲーデル不完全性定理に表されるような一つの事実に過ぎない。

確率がゼロなんてものはないとか、実験は必ず失敗するとか、そういう世界の事実を描写しているに他ならない。

泣く力も弱々しく、咳きこんでいる敗残者。・・・ペクラーの空虚、彼の迷宮の裏側に常にこれがあったのだ。ペクラーが生き、紙の上に図や印を描いている間に、すぐ外の闇で、この不可視の王国が・・・ずっと存続しつづけたのだ。・・・ペクラーは吐いた。泣きもした。壁は溶け出さなかった――牢の壁が涙で溶けたためしはない。

 

システムが歯車を軋らせるとき、必ず打ち捨てられたものたちが現れる。

ロケットの虹から外れようとするベクトル。

山なりの連続性ではなく、偶発性を、カスプの頂点をこそ求めるものたち。

どれだけ破壊され、四散しようとも、スロースロップは彼らとともにある。

消滅するものなんて何一つない、これもまた世界の事実なのだ。 

"自然は消滅を知らず、ただ変換を続けるのみ。過去・現在を通じて科学が私に教えてくれるすべてのことは、霊的な生が死後も継続するという考えを強めてくれるばかりである"

――ヴェルナー・フォン・ブラウン

 

重力の虹』は残酷な物語である。

スロースロップもブリツェロも、ビアンカもポインツマンもエンツィアンも、誰一人救われることはない。

それでもピンチョンの筆は、どこか爽やかな春の風を運んでくれる。

歌いませんか、弾むボールに合わせてどうぞ――

汝の時の砂尽きるとも

砂時計を回す御手あり

数多の塔を潰せし光が

最後の一人を棄て落とすまで……

荒れ果つる地の道にて

破壊の騎手が眠むまで

その御顔、凡ての山の肌にあり

その御魂、凡ての石の中にあり

 

ナウ、エヴリバディ――

 

 

『黄泥街』 心にこびりつくあの場所

 

黄泥街 (白水Uブックス)

黄泥街 (白水Uブックス)

  • 作者:残雪
  • 発売日: 2018/10/12
  • メディア: 新書
 

あの町のはずれには黄泥街という通りがあった。まざまざと覚えている。

忘れられない場所がある。

ふとした時に思い出す場所、瞼を閉じればその場所の情景・風土・匂いがよみがえる、そんな場所。 

兎追いしかの山だったり、1970年代のニューヨークだったり、名もなき土手の夕焼けだったり。

人によって違うし、一つとも限らない。

行ったことがあるかどうかも、限らない。

 

『黄泥街』は中国の女流作家、残雪の処女作である。

残雪の写真を調べてみると、なるほど女流作家らしいというか、小学校の先生でもしていそうな感じの人に見える。

だがそんな残雪から生み出された『黄泥街』は、生易しさとは無縁の世界だ。

物は腐り、動物はやたらに気が狂う。

太陽が出るやいなや物は腐った。いたるところで腐った。

市場入口の野菜の山は陽射しの下で湯気をたて、黄色い汁は通りに流れていった。

家々では去年からとっておいた傷んだ肉や魚を日干しにしたが、その表面にはびっしり白い蛆が這っていた。

 

黄泥街はまともではない。

細長い一本の通りに無数の家が軒を連ね、無数の虫が屋根から落ちる。

便所とゴミ山がそこら中にあり、黄褐色の汚水に足まで浸る。

空からは常に灰が降り、唯一の工場は使途不明の鉄球を排出している。

夜にはカミソリを持った殺人鬼がうろつき、住人はみんな病気持ちだ。

まごうことなきスラム街。それもアフリカの乾燥したスラム街ではなく、湿度100%の、蒸しかえるような汚臭を伴ったスラム街だ。

だが、本当にまともでないのはそこではない。

黄泥街では、会話が一切通じないのだ。

その雨降りの日、老郁はずっと、委員会から来る人を待っていた。

きじるしの楊三が老郁にたずねた。「委員会というのはいったいどんな機構なんだ?」

「委員会?」老郁は測りしれない表情を浮かべ、もう一度くり返した。「委員会だって? いいか、あんたの出したこの問題は、きわめて重大な問題だ。その関係する面たるや不可思議になほどに広い。まあ、ひとつ喩えを出して、大まかに理解できるようにしてやろう。昔、この通りに張というものがおってな、あるとき一匹のきちがい犬がやって来て、豚を一頭と鶏を何羽か噛み殺したんだが、その犬が通りで暴れまわっている折も折、張がいきなり戸をあけ、ばたりと道に倒れて頓死してしまった。その日、空はしらじらとして、カラスは天地をおおって飛んできて……実際のところ、黄泥街にはまだ未解決の案件が山とあるんだが、あんたは自己改造を強化することについて、どう思っとるんだ? ええっ?」

一事が万事こんな調子である。こんな調子が250ページも続く。

というより、ここに引用したやり取りはまだわかりやすい部類である(質問の方がはっきりしているため)。

犬のたとえ話が何を意味しているのかわからないし、たとえ話は最後まで語られずに終わってしまうし、そもそも委員会が何なのかという回答になっていない。

念のため言っておくが、このページの前後に委員会についての説明があるわけではない。説明は読者にも登場人物にもなされない。ついでに言っておくが作者が天然なわけでもない。プロローグは極めて怜悧に、正確に描かれている。

黄泥街がそんな街なのである。そりゃ未解決の案件がたまるはずだ。

 

こんな調子なものだから、物語は全く進む気配を見せない。

というかそもそも「物」が「語」られていない。揃いも揃って饒舌な登場人物たちだが、つまるところ彼らは何も語ってなどいない。

「王子光」という言葉だけが彼方から光を投げ込んでいるが、それとて展開の中で意味を変えていく。

これは物語ではなく、その死骸。

物語の死体が累々と、地平線の彼方まで塗り広げられている。

彼は身を乗り出して斉二狗にいった。「あるうわさが流れてる、王子光は王四麻の弟だというのさ……」

「その王子光はいったい、実際にいるのかね?」朱幹事が向かいの屋根裏の欄干に雀のようにとまったまま、待ってましたとばかりに口をはさんだ。「聞くところによれば、彼はちょっと来ただけでもう来ないんだという。しかし、だれも本当に見たわけでもないのに、なぜ、そんな者が来たと信じられるんだ? ひょっとしたら、来たのは王子光じゃなくて、通りすがりのただの乞食だったかもしれんじゃないか。いや、それどころか、エテ公か何かだったかもしれん。そんな王子光がいて、上部から派遣されて来たというのは、単にみんながびくびくしてたからなんだ。だからデマをとばしてそんな王子光が来たといい、王子光の名前が王子光だと信じるふりをし、みんなが彼を見たというのを信じるふりをしたんだ。しかし王子光が実際にいるのかどうか、来たのが王子光という名前だったのかどうか、彼は来たのかどうか、実は誰にも結論は下せないのさ」

 

語られるものはもはやなく、されど語りが続くとき、そこに立ち現われるものはなんであるか。

ベケットが挑んだこの問いに、残雪も挑み、そしてたどり着いた。

そこに現れるのは世界。

死体と苦痛と廃棄物が山のように積み重なり、腐って液状に混ざりあってできるもの。

すべてを茶褐色の濁流で飲み込んでいく、黄泥街という世界そのものである。

 

夢にもロケーションというものがある。

絶対に行ったことがないのに、何度も夢に見るような場所。

黄泥街はまさしくそういう場所だ。

読者の心の奥底に、こびりついて離れない。

おお、黄泥街、黄泥街よ、もしやおまえは、わたしの夢にしか存在しないのか? もしやおまえは、淡い悲哀に揺れる、ひとつの影にすぎないのか?

おお、黄泥街、黄泥街よ……

 

 

Flip the Next Coin...

『名付けえぬもの』:書くことすら消え果てた中で、それでも書くということ。

名づけられないもの

名づけられないもの

 

 

『死都ブリュージュ』:街小説つながり。『黄泥街』が灼熱の湿度100%街なら、こちらは冷涼な湿度100%街。

死都ブリュージュ (岩波文庫)

死都ブリュージュ (岩波文庫)

 

 

『夜のみだらな鳥』:南米から来たご親戚。

kambako.hatenablog.com

 

 

『V.』 宙天に浮かぶ多孔質の数珠

 

V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

  

V.〈下〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

V.〈下〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

『V.』のことを考えるとき、一つのヴィジョンが頭によぎる。

星のきらめく宇宙に浮かぶ17個の小惑星

まるで漫画の隕石やチーズのように、小惑星には無数の穴が開いている。

それらは数珠状に束ねられ、音もなくゆったりと回転している。

惑星を束ねる一本のライン、Vという名の女の物語。

 

『V.』はピンチョンのデビュー作である。

デビュー作「だから」なのか「なのに」なのか知らないが、とかく難解という下馬評ばかり流れている。まあそもそもピンチョンが難解と言われがちだし、実際わりと難易度は高いと思う。

バカでかいハードカバー本上下巻という物理攻撃もあって、「読んでみたいけど手を出しづらい」本の一つだった。

 

そんなこんなで事前ハードルはかなり高かったのだが、いざ読み始めてみるとスイスイ読めてしまう。読みながら先が気になるというのは実際結構久しぶりの体験だった。

自分の場合は、『LAヴァイス』と『競売ナンバー49の叫び』を先に読んでいたというのも大きいと思う。

処女作にはその作家の全てが詰め込まれているなんて話もよく聞くが、この『V.』でも後の作品が副読本としてうまくガイドラインを引いてくれた。

 

LAヴァイス (Thomas Pynchon Complete Collection)

LAヴァイス (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

  

 

LAヴァイス』は過ぎていく時代・歴史に対する郷愁の物語である。

時代に取り残されたヒッピー探偵ドックが、もがきながらも一人の男を次代に救い上げる物語。その背後には歴史の裏側で暗躍し続ける組織があり、ドック自身は大麻と歴史の霧の中へと消えていく。

しかし時を避けることはできない。時の海を、記憶と忘却の海を。約束された日々は過ぎ去り、もはや取り戻せない。よりよき運命を手にすることができそうに見えた地も、結局は誰もがよく知る悪人たちに襲われ、奪われ、人質として未来の手に取られた中で、我々は永遠に生きていかねばならないのだ。この祝福された船が、よりよき岸辺に着けることを、大海に溺れず、ふたたび隆起して贖われたレムリアの地に着けることを、アメリカが、慈悲深くも、その運命をあらわにせずにすむ地へ行き着けることを願わずにはいられない。

語り口こそ異なれど、『V.』もまた歴史と時代についての物語である。

ステンシルの調査は(アマチュアの模倣とはいえ)まさしく歴史家の所業だし、不器用男プロフェインとドックはどことなく面影が似ている。

マルタ詩人は時代の中に置き去りにされた自分の一部をファウストⅡと呼び、老ゴドルフィンは移ろいゆく時代を語る。

わしも歳を取ったし、世界も歳を取った。しかし、世界はずっと変わっていく。わしらが変わるのはここまでだ。

過ぎ去った時代、失われたヴィーシュー。

それらの対するピンチョンのまなざしは共通して美しく、それ故に悲しい。

 

LAヴァイス』が歴史についての話なら、『競売ナンバー49の叫び』は現在についての話である。

主人公エディパ・マースは秘密組織トライステロの影を追うが、その一方でその存在を絶対視していない。不可知論の地震に足元をふらつかせながら歩いている。

同様の姿勢がステンシルにもみられる。ステンシルはV.という女についての「歴史」がある意味では自分の妄想に過ぎないことをハッキリと認識している。

だが、それより大事なのは、V.にも秘密があるということだ。彼女についてステンシルが得た情報は、ごく貧弱なものにすぎない。ステンシルの手元にあるもののほとんどは推測なのだ。彼女が誰なのか、何者なのかをステンシルは知らない。

戦場の霧、世界というシステムのとらえきれぬほどの奥深さ。

一方で、その曖昧さに対する態度はエディパとステンシルで大きく異なる。

曖昧さに翻弄され、パラノイアじみてくるエディパに対し、ステンシルはその点妙に明るい。地震の最中にタップダンスしてみせるかのように、妄想の可能性にあっけらかんとしている。

だが厄介なことに、ステンシルは、いつも無数のアイデンティティを抱えていて、そのうちどれを選んでも何の不自由も感じないらしい。ひたすら<V.の探究者>としての道を進み、その探求のためなら何にだって早変わりするのがステンシルという男なのだ。しかしV.が彼の正体なのではない。アイゲンヴァリューや、ヤンデルノたちの正体がV.でないのと、それは同じである。

安直かもしれないが、自分はこの態度にサルトルアンガージュマンを思い出した。

(哲学の専門家ではないのであくまで自己流の解釈だが)アンガージュマンとはランダムな世界に対し「自分の意志で」意味づけするという行為である。

ステンシルもそれをしているに過ぎない。ステンシルは自らの意志で、歴史上のランダムな出来事をV.という紐でつなげようとしている。

その紐にV.を選んだのは偶然と、偶然に惹起された意志に過ぎない。

外部から与えられた意味づけに翻弄されるエディパとの違いはそこにある。ステンシルはV.という紐を持っているだけで、ステンシルの正体がV.なわけではない。

 

ところで上に引用したステンシルのアイデンティティについてのパラグラフは、そのまま『V.』という物語にも当てはまらないだろうか?

『V.』は17個の物語がV.という名の女で有機的につながれた構造をしている。

しかし、このつなぎ方は必ずしもV.でなくてもよい。

無機物VS有機物("シュミレール"プロフェインや悪坊主、レイチェルと車に人体模型など)というつなぎ方だっていいし、ツーリズムというつなぎ方だっていい。あるいはもっと簡単に年代順というつなぎ目だっていい。

つなぎ方に応じて17個の物語の順列は有機的に変化し、そのどれもが『V.』という一つの小説を形成する。

そういう意味で、『V.』の各章は多孔質である。どの穴にどの順で紐を通しても、17個の珠はつながりをキープする。

量子論的、状態の重なり合わせ。

無数の可能性が積み重なり、層を成したその形が、『V.』という物語なのである。

 

『V.』のことを考えるとき、一つのヴィジョンが頭によぎる。

数珠状に束ねられた多孔質の可能性たち。

このイメージも正しくない。

世界は変わり、人生は続くものなのだから。

 仮にV.が歴史におけるリアルな存在であるなら、それは——慣例として女性代名詞でうける船や国家と同様、実際に「女」なのではない「それ」は——今日も作動しているに違いない。なぜなら、究極の<呼び名のない陰謀>は、いまだ実現を見ていないからだ。

 

 

 

Flip the Next Coin...

重力の虹』:次回作。一部登場人物が共通。

 

kambako.hatenablog.com

 

ブエノスアイレス午前零時』:V型構造の短編。

ブエノスアイレス午前零時 (河出文庫)

ブエノスアイレス午前零時 (河出文庫)

 

 

 

グランドマスター

 

グランド・マスター(字幕版)

グランド・マスター(字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

割と前から気になってたのをPrimeで見た。

戦闘シーンだけ前から知ってたんだよね。

すげえかっけえ。

八卦掌のカンフー結構珍しいし(偏見)。

 

全体としては、「加点ポイントも多いけど減点ポイントも多い」という感じ。

実際『TIME』誌では2013年ベスト5なのに映画秘宝ではワースト10だったらしい。

映画秘宝が信用できないとか言ってはいけない。TIMEも似たようなもんだわ。

 

・加点ポイント

 *格闘シーン含めた映像がキレイ。

  だってウォン・カーウェイだもんな。

  ケレン味のある格闘シーン、頽廃感が漂う娼館・香港シーン、両極端の映像美がきっちりそろっている。

  ただし格闘シーンはいわゆるカンフー映画的なカッコよさではない。どっちかっていうとマトリックスだもんな。

  

 *チャン・ツィイーがいい。

  影があるというか、壁張ってるというか、それでいて惹かれているというか、人生の陰影を感じさせる演技。

  前述の頽廃感ある映像もあいまって忘れられない存在感を出してくれる。

 

・減点ポイント

 *ストーリーが穴だらけ。

  戦争だのなんだの激動の時代が描かれているわけなんだけど、その辺特に触れることなく淡々と話が進む。

  その割になんだこれ意味あんのか的な描写もある。特にカミソリ。メイン三人に絡むんだろうなと思ってたら一切絡まずにザコ蹴っ飛ばして終了。何しに出てきたんだお前。カッコいいけども。

 

 *敵役(マーサン)がテンプレ小悪党。

  浮世離れした世界観の中でこいつだけきっちり地に足つけて生きてる。

  逆に地に足つけてるだけで大して悪党でもないとも言う。

  戦ってるときはカッコいいんだけどなーどうもなー。

 

結局、「くそポイントもあるけどカッコいい/キレイだから許す!」が出来るかどうかで評価が変わる。

個人的には嫌いではない。

 

 

 

Realm war 初心者おすすめキャラ

僕も初心者だけど許して。

やってたら割とポンポン勝てたので書いてみる。

初心者向けなのでティア3の一部くらいまでの中から選んでます。

 

 

ピックホラー

ダントツおすすめキャラ。倒されても復活する。

基本的に復活系のキャラは強い奴が多い。

復活系のキャラは一手では倒しにくく、相手が処理にコストをかけてしまいがち。

この手のゲームは低いコストで高いコストの敵を倒すことが勝利のカギなので、コスト勝ちしやすい復活系は非常に有用。

中でもこいつは空中/地上両方攻撃でき、移動が速く、遠距離攻撃で、複数体召喚と恵まれた要素が多い。

 

ウィアードノブ・シャーマン

初期キャラオークシャーマン。

アビリティが非常に強力。

ザコを複数体召喚するタイプの敵ならアビリティだけで一蹴できる。

本体はそれなりだが、アビリティだけで相手のコスト3くらいなら軽く倒せてしまうため、コスパがよい。

 

アンデッド・アーミー

ティア3だが非常に強いので紹介。

どこでも大量ザコ召喚。弱いわけがない。

大型を囲んで棒で殴るのが基本的な使い方だが、いざという時の奇襲にも使える。

 

GORE-GRUNTAS

特攻騎馬隊。

基本的に復活系のキャラは以下略。

こいつは敵を止められない代わりに建物を攻撃してくれる。

相手の手が尽きた時に不意打ちで打つとゲームを決めてくれる存在。

 

ネクロマンサー

アンデッドを召喚するキャラ。

アビリティで本人もザコに変換できる。

体力が減ってきた頃合いにアビリティを使うことで、事実上復活系のキャラと同様の動きができる。

アビリティ前の本体もそれなりに強く、上レーンに流せば活躍してくれる。

 

モルガスト・ハービンジャー

空中近接キャラ。

アビリティの突進が優秀……というよりも、突進の距離が優秀。

上レーンに出して即アビリティを使えば、安定してゲートを取ることができる。

もちろん範囲攻撃としての使い方も可能。

 

ハイパースネアの種

1コスト足止め罠。

長所は設置時間が非常に長いこと。

先読みで使うタイプのスペルなためタイミングを選ばず使うことができ、かつ1コストなのでポンポンばらまくことができる。

ダメージは期待できないが、そもそも1コストに火力を期待するのは野暮だろう。

 

ホーティキュラス・スライマックス

ティア2の最後に解禁されるカタツムリ戦車。

通常攻撃が遠距離範囲攻撃であるため、ザコの群れにめっぽう強い。

速度は遅いものの体力も高いので、じわじわ前線を押し上げてくれる。

自分で使うとコストの重さに辟易するが、相手に使われると鬱陶しいキャラ。

 

将軍:グレイシー

将軍の中で初心者向けなのはこいつ。

アビリティの汎用性が高いのが理由。

ロード・セレスタント(初期キャラ)やネフェラタのアビリティは防御にしか使えない。

ゴルドラックのアビリティは防御→反撃ができるが、タイミングが難しい。

グレイシーアのアビリティは攻撃にも防御にも使えるため初心者向け。相手がアビリティを使った後に使うのがベスト。

体集団キャラには効果が薄いため注意。